大漁、異漁。耀

タイトルは タトゥーのようなもの

「これ、食えって?」

GALAC 2019年8月号

コナリミサトの原作は、ひとつのばめんに「いやなこと」と「いいこと」を盛りこんでくる。そのために物語は途切れない。事態が好転するのを信じて読み進める。

誇張をしなくてもヒトはイビツで、だからヒトと触れあうセックスや恋愛には抗しがたいものがある。『凪のお暇』にでてくるおとこたちはイビツだ。それを高橋一生中村倫也が演る。

世界三大欲求の食欲が満たされたー

残るは睡眠とー

あとひとつ なんだっけ?

ねえ凪

して 

セックスを愛せない。さいきんよくとりあげられる感覚だけれど、性行為を強いる慎二(高橋一生)に悪意があるわけでなく、身体のちがいをまだ知らないだけ。身体の、ひいては思考のちがいに気づけぬままならサイコパス。どうなるのだろう、慎二。

そしてゴンさん(中村倫也)がドエロい。観ていて泣きそうである。

 

さて、『GALAC』(2019.8)だ。中村倫也はいま注目されているし、記事にあるとおり〈4〜5年くらい前から〉話題になってもいた。

〈俳優を始めて15年になる〉

その頃。

「需要がないことをどうしたらいいんだろうって考えて腐ったりもしていました」

若いころは芝居がうまいことがいいことだと思っていたんです。でも、実際には商業的なことや、役にあった見た目や声質なんかで選ばれていく。芝居がうまいに越したことはないけど、その前に人間的な魅力とか、醸し出す雰囲気とかが重要なんだって学びました。

けっしてとんとん拍子に来たわけではない。

恋愛や、生活もそう。凪(黒木華)も、慎二も、ゴンさんもイビツであり、つまずいている。

俳優たちがしっかりとふくらませた実写化。イビツな陰影に打ちのめされる。

「木南さんのせりふに『寝顔が美しい』とあるので、最近パックもしています(笑)」

家事に類することがひとつ片づいたので、深夜のコンビニに行って雑誌を購入。

『テレビライフ首都圏版 2019年 8/2 号 [雑誌]』と、『MORE(モア)2019年8月号 付録:uka 美髪パドルブラシ』

『TVLIFE』の山田涼介がとてもきれい。山田涼介を好きな友人が、王子さまになりたいと、おんなの子と暮らしはじめてしまったのもわかる。その友人は善意の使命感に駆られて問題だらけの少女と添い遂げるのだと言う。

 

ドラマ『セミオトコ』。『セトウツミ』から来たのだろうか。設定の強引さがまた幻想的で、どんなドラマになるかなとおもいながら読んだインタビュー、山田涼介の期待のさせかたがすごい。

セミオトコはふ化して生まれたばかりだから子供っぽい無邪気さも欲しいと言われて」

ある時、木南さんが監督から『もっとセミにひきつけられてほしい』と指示を受けていて。すぐさま『それは俺の問題です!』と言ったんですけど(笑)

責任感を支えているのが優しさ、というひとはすくないけれど、山田涼介は優しくて責任感がある。そのやわらかさがあちこちから窺える。

7日間しかないと猶予が明確に決まっているのなら本当に自由に生きると思います。ほとんどの人、特に大人は自由には生きられていないのが現状だろうから。

「半人前でも、三人揃えばなんとかなるっしょ」

週末のお楽しみ、大野拓朗主演のドラマ『ベビーシッター・ギン!』。あつかう世界が嘘でなく、陰惨でもなくがんばって生きようという気になる。

第3話。脚本、嶋田うれ葉

公式はネタバレを避けているけれど、捨て子をめぐる凄い話なので、大胆に告知するのも良かったような。

 

脚本がとても好みだった。

作物は、因果を厳密に説こうとすればかえって緊張感がうしなわれ、退屈なものになる。だから、原因でもあり結果でもあるといった、省略と含蓄が効いた台詞にワクワクした。快い。

たとえば「保健体育だけは、みんな『5』」という台詞。保健体育の成績が優良だったために“ベビーシッターになりたい”とギンを訪れることになったのか、“ベビーシッターになりたい”と言うに至る行為のなかで、保健体育に習熟していったのか……。

前後関係をさまざまに想像させる。一目瞭然なことには台詞を割かない。

 

「わたしたちじゃ限界だって気づいたんです」

 

年齢の悲劇と、人間の悲劇をごっちゃにしていないのも好い。

年齢によって生まれる行動というものもある。それがきちんと書かれていることもあって、サトミ役の藤野涼子の高校生らしい無謀が沁みた。

父親役に、ミスターちん。

アレクサンドリア、世界の結び目。

アントニーとクレオパトラ (新潮文庫)

「ナショナル・シアター・ライブ」の『アントニークレオパトラ』(2018)、二人の死が語られるラストを冒頭にもってきたので、おどろいた。そういういじりかたを、予想していなかった。

アントニークレオパトラ』が書かれたのは四代悲劇のあと、比較的後期で、さまざまなシェイクスピアらしさのパッチワークといった趣もあり、場面転換は複雑だが、人物たちはこなれていて、おかしみもある。演出はサイモン・ゴッドウィン。

 

レイフ・ファインズとソフィー・オコネドが、アントニークレオパトラ。年の差ある二人だけれど、踏んできた場数をおもえば“オジサンとオバサン”だ。それが、政治的な思惑をきっかけに、恋にズブズブ嵌まりこんで抜けられなくなっているのが、とても好い。もちろん居たたまれない、目を背けたいという意味でもフィクションとして好い。

若者とちがってキラキラしていない“オジサンとオバサン”だから、恋に落ちるまでのドキドキを丁寧にえがく必要もない。そしてそんなドキドキはエッセイ的ではあってもドラマではない。

まわりはすでに、手を焼いている。転落の物語がはじまってしまっている。

シェイクスピアには《運命》ということばがよくでてくるし、それに意識が行きがちだけれど、人物の性格や、関係性で道はつくられる。

アントニー 言ってみろ、どちらの運が強いか、シーザーかおれか?

占師 シーザーの方が。さればこそ、おお、アントニー様、あの男のそばにいつまでもお留(とどま)りなさいますな。お前様の霊は、お前様の守り神のお前様の霊は、常に高邁、活気みなぎり、猛くして周囲を圧するの概(がい)がある、が、傍にシーザー在るときは、そうはゆきませぬ。その近くにあっては、お前様の守護天使に恐怖の影が宿り、始めからけおされてしまいましょう。さすればこそ遠く離れているに越したことはございませぬ。

今回の舞台では占師でなく、べつの人物(エーロス(フィサヨ・アキナデ))に語らせていた。

そういう台詞の振りかたなどもあって、アントニークレオパトラ、シーザー(オクテイヴィアス・シーザー(タンジ・カシム))、ポンペイ(サーゴン・ヤルダー)、いろんなばめんで濃密な主従の関係をみることができる。肉欲でつながっているとは言わないが友愛、同性愛的な近さでもある。

ポンペイもコミカルに演じられていて、印象がつよかった。和解や、宴会。潰れる寸前のレピダス(ニコラス・レ・プレヴォスト)。主君の判断を危ぶむイノバーバス(ティム・マクマラン)とミーナス(ジェラルド・ジャイマ)にあるのは軽口、そして決然としたところ。

メーナス (小声で)あなたには、全世界の主になろうというお気はないのか?

ポンペイ (小声で)何の話だ?

メーナス (小声で)全世界の主になろうというお気はないのか? これで二度目です。

ポンペイ (小声で)どうしたら、そうなれる?

メーナス (小声で)その望みを起すこと、それだけでよろしい、あなたの目には能無しとも見えましょうが、後は私にお任せ下さい、見事、全世界を手に入れてみせます。

メーナス「全世界を三分する共同経営者たちが、こうしてあなたの船に乗込んでいる、私に錨綱(いかりづな)を切らせてくれればよい、そうして沖に出たところで、奴らの咽喉元を襲うのです」

ポンペイ「おれの立場では、そいつは陰謀というものだ、それが貴様なら忠義になる。よく覚えておけ、おれにとっては利益よりも名誉が大事なのだ」

メーナス「ほしいくせに、いざ遣ると言われて手を引込めるような男では、二度と機会は掴めない」

行動が、まわりの評価となる。それがシェイクスピアの《運命》である。魔術的な展開は晩年の『冬物語』『テンペスト』など「ロマンス劇」と呼ばれるものにかぎられるだろう。そうかんたんに、にんげんはよみがえらない。しんだにんげんは、しんだままだ。

 

新潮文庫福田恒存の解説を引いておくと〈シェイクスピアが『アントニークレオパトラ』を書いたのは、いわゆる四代悲劇の最後の作品『マクベス』を書き終えた直後である。この作品の後には、同年から翌年にかけて、『コリオレイナス』と『アセンズのタイモン』の二つの悲劇が続けて書かれ、『ジュリアス・シーザー』に始ったシェイクスピアの「悲劇時代」は終りを告げる。それ以後は多少暗い色調を残しながらも徐々に夢幻的要素を濃くして行き、その「浪漫喜劇時代」の最後に万有調和の澄明な世界を啓示する『あらし』が来て、シェイクスピアの世界は完結するのである〉──。

〈悲劇の主人公は、ハムレットマクベス、リア、いずれもみずから死ぬのではないが、その死は自殺と紙一重である。なぜなら自分の主題を生き抜くために、われとわが身を死に負い遣るからである。キャシアスやブルータスもそういう悲劇的な宿命を背負っている。が、アントニーにはそれが稀薄であり、クレオパトラにはそれがほとんど無い。彼らの死は始めから彼等の内部にあり、やがて熟柿が落ちるように、それが外部に表れてくる。死は官能の頽廃から遣って来る。悲劇的な意思とは何の関係も無い〉

〈『アントニークレオパトラ』を書いた時のシェイクスピアは「悲劇時代」の出口に立っていた。おそらく彼は悲劇に酔えなくなっていたのに違いない。その代り、彼の目には人間性の現実が的確に映じていたのではなかったか〉

 

レイフ・ファインズ演ずるオジサンのアントニーは、エジプトではだらしない四肢と服装だが、ローマでは背広を着こなしいくらかまともに大人の顔をすることもできる。それでいて年下のオクテイヴィアス・シーザーのまえではわざと自堕落なところをみせたりする。

アントニークレオパトラは権力を得たあとも、わがままなのだ。それでひとから憎まれる。

あのドラマのまえに、これ。

ベビーシッター・ギン!(1) (Kissコミックス)

原作を知らず、「LGBTと女装をあつかったテレビドラマがここにも」とあなどっていた。

かるく第1話をチェックするだけのつもりだった『ベビーシッター・ギン!』、脚本にも俳優にもユーモアと包容力があって、観ていてアタマがショートする。録画視聴を一旦停めて、大和和紀の原作マンガ(連載は1997年から2007年)を読んだらこちらも胸に刺さるおもしろさで、泣けて、一旦ストップ。落ち着くのに時間がかかる。

これが、少女マンガだよ。

この「少女」にはもちろん大人の女性も含まれる。ベビーシッター・ギンのような、男性的でない男性も「少女」に入れていいだろう。

いわゆるマーケティングとはすこしちがう。「少女」たちの困っていること、苦しんでいること。その軽重はさまざまだけれど、掬(すく)い上げて物語とする。寄り添い、自律をうながす優しさ。

ドラマの脚本は泉澤陽子。大和和紀のマンガとの異同をたしかめるのも楽しい。

 

ゲスト出演に鈴木杏渡部豪太。子育てが大変なお母さんと、まわりにはイクメンとおもわれているがまるで子供の面倒を見ないお父さん。どちらも厭なかんじになり過ぎず、浮き彫りにされた問題を観ていられる。

そしてゆりやんレトリィバァ竜雷太大野拓朗。やわらかなキャスティングだ。

大野拓朗が美しい。長身で、慎みがあって、ナニーとして違和感なく、誇張せず、日本の公園をあるいていても辺りにふしぎな色を添える。女装というより女性の印象をあたえるのも凄い。

「美しいと感じるものはなんでも好きです」  萩尾望都

芸術新潮 2019年 07月号

美ST(ビスト) 2019年 8月号 (美ST増刊)

萩尾望都『芸術新潮 2019年 07月号』平野紫耀の『美ST』を購入。ジャニーズにもとめ、推したくなるのは萩尾望都的なキャラクターの真ッ直ぐな感情と、社会と接触したときの歪みと、身体能力に由来する挟持なのだと得心する。

なによりも先ず、萩尾望都。原風景とか、原体験といったものとは一寸ちがう。こころのなかの地平に開いた、おおきな穴のひとつ。そこに思考が落ちていきやすい。たとえば立川談志とか。安部公房とか。

 

生きのこった者だけが、出逢いと別れを語ることができる。萩尾望都が、編集者・山本順也のこと。

私は、山本さんに出会ったおかげで、今日までマンガ界でやってこられた。忘れがたい恩人です。誰でも、人生の途上で、こういう良い出会いがあるのではないでしょうか。そういう時は、絶対その人を離してはいけません。

 

50年、100年といった長い時間を隔ててその絵と対峙する場合、描かれた人も描いた人も、もうこの世にいない。そう考えると、肖像画って、ある意味タイムマシーンのようで面白い。なので、ちょくちょくモティーフに使っています。

 

人が毎日同じ夢を見ないのと同じで、ある日はSF、ある日は歴史もの……と行ったり来たりして描いています。

開催中の『Manga マンガ展』(大英博物館)の記事「現地レポート モーさま、ロンドンをゆく」で紹介された質疑応答や研究者の分析が興味深かった。

「『なぜ吸血鬼?』との質問に、萩尾は『私はヴァンパイアが嫌いだったので自分でも驚いています(笑)。夕暮れの丘に、マントを着た少年が立っているイメージが浮かびました。子供なのに、とても大人びていて悲しそう。美しく悲しい吸血鬼なら描けるかもと思いました』」

──作品全体の大きなテーマは?(英国人女性)

「あるとすれば、喪失感をどう埋めるかです」

 

──作品の動きが軽いのは、意識してそう描いているのか?(日本人女性)

「普段は重力に縛られていますが、心は空へ高く舞い上がっていくばかり。それで絵がふわふわしているのかもしれません」

大英博物館アジア局日本部門長のティモシー・クラークが「マンガも浮世絵と同様、動きの一瞬を捉え、雄弁にストーリー・ラインを繋ぐアートだと気づくのに、だいぶ時間がかかった」と。

時間や説明の省略。それが徹底していて萩尾望都は美しい。

 

ある種のタナトスに憑かれていた印象の平野紫耀。『美ST』8月号のインタビューで「仕事への意識」の変化を語っていた。

「デビューが決まってもCD出せるという嬉しさだけだったけどスタートラインに立ったら『うわ、こんなに数字が歴然と細かく出るんだ』って気づいて怖くなりました。でもそう思うと同時に一旦デビューしたからには絶対負けたくないとスイッチが入った」

 

「責任感という言葉が大嫌い」

「頑張れよって言われるのも嫌いだから流すようにしています」

だって言われなくても頑張ってるんだもん。寝ずに頑張ってるんです……僕は 

 

JUST BE JOYFUL

haru*hana(ハルハナ)VOL.56 (TOKYO NEWS MOOK 769号)

スペースシャワーTVプラスの「コリアンヒッツ」をながしていたら、きれいな、淡くするどい二人組のMV。眼をうばわれた。JBJ95の「AWAKE」。

JBJ出身の1995年生まれ。キム・サンギュンとKENTA(高田健太)。

しっかりした、男っぽい貌のほうがKENTAかとおもっていたら、逆だった。

生きているとどんどんものがわからなくなる。国籍とか、性別とか、セクシュアリティなんかでポジショントークできなくなるし、なにひとつきめなくていいというかんじ。

「AWAKE」は、たしかな歌唱と、かわいらしいダンス。