「ナショナル・シアター・ライブ」の『アントニーとクレオパトラ』(2018)、二人の死が語られるラストを冒頭にもってきたので、おどろいた。そういういじりかたを、予想していなかった。
『アントニーとクレオパトラ』が書かれたのは四代悲劇のあと、比較的後期で、さまざまなシェイクスピアらしさのパッチワークといった趣もあり、場面転換は複雑だが、人物たちはこなれていて、おかしみもある。演出はサイモン・ゴッドウィン。
レイフ・ファインズとソフィー・オコネドが、アントニーとクレオパトラ。年の差ある二人だけれど、踏んできた場数をおもえば“オジサンとオバサン”だ。それが、政治的な思惑をきっかけに、恋にズブズブ嵌まりこんで抜けられなくなっているのが、とても好い。もちろん居たたまれない、目を背けたいという意味でもフィクションとして好い。
若者とちがってキラキラしていない“オジサンとオバサン”だから、恋に落ちるまでのドキドキを丁寧にえがく必要もない。そしてそんなドキドキはエッセイ的ではあってもドラマではない。
まわりはすでに、手を焼いている。転落の物語がはじまってしまっている。
シェイクスピアには《運命》ということばがよくでてくるし、それに意識が行きがちだけれど、人物の性格や、関係性で道はつくられる。
アントニー 言ってみろ、どちらの運が強いか、シーザーかおれか?
占師 シーザーの方が。さればこそ、おお、アントニー様、あの男のそばにいつまでもお留(とどま)りなさいますな。お前様の霊は、お前様の守り神のお前様の霊は、常に高邁、活気みなぎり、猛くして周囲を圧するの概(がい)がある、が、傍にシーザー在るときは、そうはゆきませぬ。その近くにあっては、お前様の守護天使に恐怖の影が宿り、始めからけおされてしまいましょう。さすればこそ遠く離れているに越したことはございませぬ。
今回の舞台では占師でなく、べつの人物(エーロス(フィサヨ・アキナデ))に語らせていた。
そういう台詞の振りかたなどもあって、アントニー、クレオパトラ、シーザー(オクテイヴィアス・シーザー(タンジ・カシム))、ポンペイ(サーゴン・ヤルダー)、いろんなばめんで濃密な主従の関係をみることができる。肉欲でつながっているとは言わないが友愛、同性愛的な近さでもある。
ポンペイもコミカルに演じられていて、印象がつよかった。和解や、宴会。潰れる寸前のレピダス(ニコラス・レ・プレヴォスト)。主君の判断を危ぶむイノバーバス(ティム・マクマラン)とミーナス(ジェラルド・ジャイマ)にあるのは軽口、そして決然としたところ。
メーナス (小声で)あなたには、全世界の主になろうというお気はないのか?
ポンペイ (小声で)何の話だ?
メーナス (小声で)全世界の主になろうというお気はないのか? これで二度目です。
ポンペイ (小声で)どうしたら、そうなれる?
メーナス (小声で)その望みを起すこと、それだけでよろしい、あなたの目には能無しとも見えましょうが、後は私にお任せ下さい、見事、全世界を手に入れてみせます。
メーナス「全世界を三分する共同経営者たちが、こうしてあなたの船に乗込んでいる、私に錨綱(いかりづな)を切らせてくれればよい、そうして沖に出たところで、奴らの咽喉元を襲うのです」
ポンペイ「おれの立場では、そいつは陰謀というものだ、それが貴様なら忠義になる。よく覚えておけ、おれにとっては利益よりも名誉が大事なのだ」
メーナス「ほしいくせに、いざ遣ると言われて手を引込めるような男では、二度と機会は掴めない」
行動が、まわりの評価となる。それがシェイクスピアの《運命》である。魔術的な展開は晩年の『冬物語』『テンペスト』など「ロマンス劇」と呼ばれるものにかぎられるだろう。そうかんたんに、にんげんはよみがえらない。しんだにんげんは、しんだままだ。
新潮文庫、福田恒存の解説を引いておくと〈シェイクスピアが『アントニーとクレオパトラ』を書いたのは、いわゆる四代悲劇の最後の作品『マクベス』を書き終えた直後である。この作品の後には、同年から翌年にかけて、『コリオレイナス』と『アセンズのタイモン』の二つの悲劇が続けて書かれ、『ジュリアス・シーザー』に始ったシェイクスピアの「悲劇時代」は終りを告げる。それ以後は多少暗い色調を残しながらも徐々に夢幻的要素を濃くして行き、その「浪漫喜劇時代」の最後に万有調和の澄明な世界を啓示する『あらし』が来て、シェイクスピアの世界は完結するのである〉──。
〈悲劇の主人公は、ハムレット、マクベス、リア、いずれもみずから死ぬのではないが、その死は自殺と紙一重である。なぜなら自分の主題を生き抜くために、われとわが身を死に負い遣るからである。キャシアスやブルータスもそういう悲劇的な宿命を背負っている。が、アントニーにはそれが稀薄であり、クレオパトラにはそれがほとんど無い。彼らの死は始めから彼等の内部にあり、やがて熟柿が落ちるように、それが外部に表れてくる。死は官能の頽廃から遣って来る。悲劇的な意思とは何の関係も無い〉
〈『アントニーとクレオパトラ』を書いた時のシェイクスピアは「悲劇時代」の出口に立っていた。おそらく彼は悲劇に酔えなくなっていたのに違いない。その代り、彼の目には人間性の現実が的確に映じていたのではなかったか〉
レイフ・ファインズ演ずるオジサンのアントニーは、エジプトではだらしない四肢と服装だが、ローマでは背広を着こなしいくらかまともに大人の顔をすることもできる。それでいて年下のオクテイヴィアス・シーザーのまえではわざと自堕落なところをみせたりする。
アントニーとクレオパトラは権力を得たあとも、わがままなのだ。それでひとから憎まれる。