大漁、異漁。耀

タイトルは タトゥーのようなもの

「かわいい」のこと

夢中さ、きみに。 (ビームコミックス)

遅ればせながら、和山やま『夢中さ、きみに。』。書影はずいぶんまえから気にしていたが「手塚治虫文化賞(短編賞)とりましたよ! 試し読みもできますよ!」と年下の友人から推されるかたちで、やっと。

単行本は林くんが登場する4篇と、二階堂くんがでてくる4篇。1篇ずつ試し読みできるのは、送りだす側の自信だろう。

 

ガロとか、ヤングマガジンとか、わたせせいぞうを連想する。設定、掘り下げに無理がない。

リアリティと、ふわっとしたところと、フィクションによってどうにか辿り着けるような、得がたい幸福。

 

「うしろの二階堂」に、パロディの技巧を見る。タイトルは言うまでもなく『うしろの百太郎』。

二階堂くんが明らかに伊藤潤二キャラで、「二階堂…伊藤潤二の漫画に出てたよね?」とセリフされる。出どころをハッキリさせて、パロディ押しをさっさと終わらせる。やりとりはつづき二階堂くん「…別に」。対する目高くん心のうちで「沢尻エリカかよ……」。序盤にパロディ詰めこんだ。あとは本然の描写、物語に還るだけ。

 

和山やまは、起承転結の「承」が巧い。「転」と呼んでもいいようなおどろきがある。

そして「転」で登場人物がしっかり行動する。「結」は、さらりと。

 

ちんちんがでてこないのもいい。ちんちんなんて、ないでしょ。男子に。

〈そして、兵営の外の世界のやりきれない暗さが、僕の皮膚をふたたび染めはじめているのに気付くのだ〉  吉行淳之介「藺草の匂い」

焔の中 (P+D BOOKS)

短篇集。吉行淳之介『焔の中』。えがかれているのは昭和十九年、二十年。敗戦まぢかの日本だ。

「僕」を形成しているのは虚弱な身体と、あこがれ。逞しい男性像へのそれはない。十全ではない身体が欲するのは、女体だ。

まさに吉行淳之介のテーマだけれども、青年期の入口に立つ「僕」は「童貞」で、まだまだ初心(うぶ)。

手札のすくなさと、虚勢と、観察者ふうな醒めた眼が、おもしろい。その眼で戦争を見てもいる。

飲酒退校、喫煙停学、という校則がことごとしく設けられていたし、一挙手一投足が監視され口喧(やかま)しく指図されていた。そうなると、一つ一つ僕たちは相手が嵌め込もうとする枠からはみ出した行動をしたくなってしまう。そして、その結果として不愉快な苛立たしい気分に陥ることになるのだ。そういう気持を、毎日繰返しているのが、僕たちの仲間の学生生活だった。

ゾルという言葉は、ドイツ語のゾルダーテンからきたもので、軍人嫌いの学生たちが侮蔑の気持を籠めて発音したものだ。この言葉を聞くと、急に僕の気持は弛んでしまった。相手を警戒する気持がすっかり消えたわけではないのだが、兵舎の中で軍人の悪口を喋るという状況の面白さが、僕の心を捉えてしまった。それは、ダンディズムに最も近いものであったろう。

 

「ひそかに期待するというところが、つまり思春期の証拠なんだよ」

僕は老人の口まねをして、笑った。

 

〈青春というやつは、どうしてこう、べたべたしてるんだろうな〉と「僕」は言う。それはやすやすと女体男体の体液に結びついていく。「僕」が青春に抗うようなのは、好い。恋愛もしたくないと言う。しかしセックスはしたい。

〈肥った女は、白い肌理のこまかい皮膚が張り切っていたが、僕の眼にはその下に詰っているものが人間の肉ではなくてカマボコかなにかのように思えてしまうのだ〉

女性への嫌悪と自己に対する嫌悪が手をつないでいる。「藺草(いぐさ)の匂い」「湖への旅」の二篇はその辺りの甘さもあるが、表題作「焔の中」は小説としての出来が良い。

〈太平洋戦争の末期、昭和二十年晩春のことである。そのころ、僕は「いま何をもっとも欲するか」と、自分の心に問うてみることがあった。そこにはいろいろの答えが並んでいるのだが、反射的にうかび上ってくるのは「夜、ふとんに入って、眼が覚めたら、朝だった、という気分を味わってみたい」という答えであった〉

空襲のために眠りがたびたび中断される。なるほどそんな時代だったかとおもう。

美容師の母、それと若い女中との暮らし。おなじような時代を扱うのでも、安岡章太郎阿部昭とはちがい、父権を欠いた生活だ。

僕は洗面所へ行って口をすすぎ、壁にかかっている鏡にむかって歯を剝きだしてみた。鏡には、異様なまでに蝕まれた歯列(はなみ)が映っていた。老人の歯である。僕は口を閉じてみる。歯は血の色の濃い若い唇のうしろに隠れて、鏡には少年と青年の境目にある男の顔が映っていた。

 

「廃墟と風」では外界も荒廃している。〈樹木は枝が焼け落ちて、一本の焦茶色の棒になっていた〉

女性の同性愛心中とか、女友達とか、飲み屋の女将。異性が素描されていく。

 

「華麗な夕暮」は終戦後を書く。

〈戦争が終る気配が濃くなっているときに、死んでしまうのはいかにもモッタイ無いではないか。そして、死から免れるためには、東京から離れさえすればよいのである〉

〈僕に必要だったのは、女の心ではなく女体だった〉

解放感のうちで、最も大きなものは、やはり死から解放された気持だった。 死ぬことについて諦めと覚悟はついているつもりだったが、二十歳の肉体の中では十分に死を飼い馴らすことが出来ていなかったことを、僕はそのとき知った。

「おまえは学ぶことを怠るな。一日一冊は本を読みなさい」

period (IKKI COMIX)

ぼくはずっと バットは野球をするためにあるんだと思っていた。

投げられたボールを、

打つためにあるんだと…

でももしかしたら 逆かもしれない。

もともとは ボールじゃないものを たたいていたんじゃないか?

吉野朔実(1959−2016)による『ピリオド』第1巻。

ゆうべ バットで殴り殺したはずの父が

居間で新聞を読み、お茶を飲んでいる。

物語というのは、なにかがなにかとつながるものなのだけれど、吉野朔実はぞっとするつなげかたをする。親切な作り手ではない。リアルが不意におとずれる。内田百閒の小説みたいだ。

 

無垢な兄弟。暴力を振るう父親。借金をかさねる親戚。はじまりはここから。

(ショックやったなぁ…仕事とか夢とか 諦めなあかんこともあるんや…)

広告会社、男子寮のおかずくん(5) (クロフネコミックス)

オトクニ『広告会社、男子寮のおかずくん』第5巻。

巻頭は、タニタ食堂の話で、めずらしく固有名詞がでてきたと読み進めれば、外食で肉料理をシェアした奇縁とあとがきに書かれていた。偶然を語れる明るさが佳い。

ほかにも大手を離れ、中小に転職した話や、外食コンサルタントの意見を容れて売上が落ちちゃった話など、しばらく経っておもいだしてしまうような「選択」をめぐるエピソード。

「そっか…ターゲットとおれらって たった4歳違いなんだ」

広告会社、男子寮のおかずくん(4)【電子限定かきおろし付】 (クロフネコミックス)

オトクニ『広告会社、男子寮のおかずくん』第4巻。

競合店もなく、美味しいのに客数が減っている洋菓子屋さんと新人の営業の子。設定だけでドキドキする。

色んなイベントを1年で1周して…

客入りが落ち着いてしまった…?

だとすると

それは商品価格とかの問題であって…

広告で…私たちがどうこうできることじゃなくない…?

分析がリアル。登場人物たちは清潔。理想的なドラマだ。

 

ファッション誌に異動したが「オレがやりたいの文芸だもん」という話。

「オレ…自分が良いと思えないもの どう売っていけばいいのか わかんないんだよ…」

かんたんには解決できないこともある。そいういうものを長い台詞でムリに説得しないところがすごく佳い。

問題を問題のまま宙吊りにしつつひと息つく。それがごはんや恋かもしれぬとおもったり。もちろん、『おかずくん』は下手に恋をえがかず、ごはんで心を溶きほぐす。

 

一九七九年の名作劇場

赤毛のアン ファミリーセレクションDVDボックス

TOKYO MX で『赤毛のアン』がはじまった。アニメ『映像研には手を出すな!』や志村けんとパンくんの残影のなか視聴する。想像力と友情をあつかう。何周目のアンだろうか。とにかく泣く。おもいだしただけでも泣く。

初回は「マシュウ・カスバート驚く」と「マリラ・カスバート驚く」の2話。個性のはっきりした登場人物たちでパンチは効いている。物語としての展開はまだないのに、胸しめつけられるし面白い。ドラマというのは、出来事の手前に渦巻いているものかもしれない。

台詞も美術も丁寧だ。

「にんげんになれなかったじぶんを恥じるように、ひっそりと去っていく」

泣き虫しょったんの奇跡

泣き虫しょったんの奇跡』(2018)。主演は松田龍平だが、早乙女太一妻夫木聡染谷将太永山絢斗野田洋次郎、渋川清彦、上白石萌音新井浩文その他、新進の二枚目だけでも大勢でていて、しかし将棋の、奨励会の話だからみんなで幸せになることはできない。将棋の世界にのこることができず、途中退場する者もたくさんいる。

へんに印象づけようと、うるさく演っていなかったので却って胸にのこる。『彼らを見ればわかること』で観た駒木根隆介、桂三度(演技はけっして上手くない)がでていたのも嬉しい。

 

原作は棋士瀬川晶司の自伝。それを奨励会経験のある豊田利晃が撮った。だからつまらない嘘もなく、省略もナチュラルだ。

少年時代からはじまる。担任の先生の松たか子が良い。優しくて、泣けてしまう。しょったんの両親役の國村隼も美保純も優しい。お兄ちゃん(大西信満)が一人カリカリしているが、まあこれは役割分担でもある。まわりの優しさのために、じぶんは努力を怠ったのではないかと後悔するくだりは、一寸凄い。

生きていると、感謝を伝えきれずに終わってしまうことが何度もある。じぶんの物語や、他人の物語から逃げだしてしまうことも。そういう悔いがずいぶんえがかれている。

イッセー尾形小林薫もでていた。

 

街をあるいていてくるしくて、底なし沼に足を辷らせたようになるばめんがある。幻覚のたぐいだが、これを実際撮っている。

アスファルトのいろした底なし沼にすっかり呑まれて、目も鼻もわからぬ恰好でもがくすがたを観てああこれは松田龍平にしかできない映画だったんだなと納得した。