大漁、異漁。耀

タイトルは タトゥーのようなもの

画も声も清潔。

海辺のエトランゼ

BL長編アニメ『海辺のエトランゼ』(2020)。紀伊カンナ原作。

舞台は沖縄の離島。母を亡くして孤独な実央(松岡禎丞)×ゲイだが未経験の小説家・駿(村田太志)。

恋愛感情なのかどうか語られることこともなくするりと三年後の再会。「理由なんかいいんだよ。一緒にいたいから、戻ってきたよ」と実央。

実央はシンプルに性的衝動をぶつけたくてたまらない。そこから逃げるようなところのある駿には古臭い道徳と傷があって、それもまあネコとしてあいての肉体を受けいれる覚悟に集約されていくから、乗り越えられぬものではなかったのだろう。

かつての婚約者・桜子(嶋村侑)が登場する。絵理(伊藤かな恵)と鈴(仲谷明香)という百合めいたカップルもでてくる。昔と今が混在しているのは、自然にめぐまれた土地のためだ。都会で前時代的な物語に縛られていると、ちょっと愛されない。

風通しは良いがドライでない、潮騒の匂いの物語。

排除する思春期

プリンシパル~恋する私はヒロインですか?~

プリンシパル〜恋する私はヒロインですか?〜』(2018)。原作・いくえみ綾。監督・篠原哲雄。脚本は持地佑季子。

若き日におとずれる好意の変遷。2時間の映画だからエピソードは省略される。あいてをいつ好きになり、どこで好きでなくなるか。そこにあまり踏みこまず、とつぜんに感情の吐露があって妙におもしろい。こういう撮りかたもある、という可能性。人物の心理を言語化、挿話化しないたぐいのフランス映画のようでもある。

高杉真宙が抜群に良い。感情、衝動をしまえるところが強み。

黒島結菜川栄李奈小瀧望森崎博之鈴木砂羽

鈴木砂羽の豪胆な演技はクセになる。

マヒ×ヒロ

 

散歩する侵略者

散歩する侵略者』(2017)の衝撃は高杉真宙だった。浮世ばなれした美少年。

長澤まさみ松田龍平が演じる、壊れつつあった夫婦の愛の物語だが、あんがい高杉真宙長谷川博己のドラマでもあった。

ジャーナリストの桜井(長谷川博己)は宇宙人を名のる天野(高杉真宙)の「ガイド」になってしまうのだけど、この世界への反発もあって徐々に絆を深めていく。大した議論もなく、ただただ心でのめりこんでいくので、桜井はへんな人物なんだとわかってくる。長谷川博己も凄い。

桜井が地球の侵略に加担するさまは、クィア文学。クィアというのはピカレスクともちがうものだというおどろきもあって。

恒松祐里笹野高史満島真之介が好演。それぞれの感情、思惑がばらけて群像劇としてもみごと。

ほかに前田敦子光石研児嶋一哉東出昌大など。

監督、黒沢清

「僕たちは、ただ集まり、ただ漠然と、奇跡だけを信仰していた」

昭和歌謡大全集

昭和歌謡大全集』(2003)。監督・篠原哲雄。脚本・大森寿美男。原作は村上龍。青年とオバサンの抗争劇。

みんなマトモでスマートなんだから、暴力に訴える奴なんかいないとおもわれていた一時期の日本。戦争や、自国民への武力行使は遠くの世界のお話だった。あるとき宗教団体が国家転覆をはかってさまざまな事件を起こしたことで日本はますます暴力と向き合えなくなり、こじらせていくのだけれど、暴力の見えないところではエロスは稚拙なものになる。あいてにいきなり突きつける。

そういう、エロスに習熟していない青年が年上の女性や男性と出会う。生きかたの手ほどきをされるというのが物語的な「成長」だけれども、『昭和歌謡大全集』で青年はオバサンをころしてしまうし、登場するオジサンは「こじらせている」のでルサンチマンのままに青年をそそのかす。

このオジサンに、原田芳雄。うごきに型のない不気味なオジサンだった。寺田農、木下ほうか、古田新太ミッキー・カーチスも良かった。

六人の青年に松田龍平池内博之安藤政信斉藤陽一郎村田充近藤公園。対するオバサン六人組〈ミドリ会〉は内田春菊、岸本加世子、樋口可南子森尾由美細川ふみえ鈴木砂羽

〈ミドリ会〉が賑やかで、魅力に溢れる。荒唐無稽の匂いをのこしつつリアルである。

 

篠原哲雄任侠映画のように撮った。そこも本作の愛しいところ。

芸術新潮 美 少年

芸術新潮 2021年6月号

芸術新潮』2021.6 特集「新・永遠の美少年」。撮りおろしスペシャル・グラビアに 少年。

若き日のジョセフ・バンクスの肖像画が典型的な美少年で眼をうばわれた。色白、細面、まなざしに物憂げな印象。瞳につよい確信がやどれば少年期は終わるだろう。

18世紀イタリアのジャコモ・チェルーティ描く少年は、鼻や唇がたっぷりして涙袋もしっかりある。現代的な鮮やかさで一寸おもしろい。

 

 

「どの作品が、一番美少年だと思いますか?」と問われて佐藤龍我が挙げたのはイジドール・ピルス『ガルニエ宮のメルクリウスのための習作』。心身の躍動を予感させる裸の少年だ。

裸でも堂々としていて自信がある。しかもカッコいいから。俺だったら恥ずかしがると思います。

美少年に必須な要素を聞かれて「『美少年』だと思う自信」と答えてもいる。佐藤龍我にとって《自信》は思想なのかもしれない。

 少年への質問ページでは藤井直樹も自信について語っていて、「そもそも、一番最初に『東京B少年』という名前をつけてもらった時、自分はあんまり顔に自信がなくて、重いなぁと思っていて。それを見透かされたのか、ある時ジャニーさんが『You、顔がいいんだから自信持たないと』ってアドバイスをくれたんです。改めて自分のことを褒めてくれたので、自信がついたという思い出があります。嬉しかったですね」と沁みる話。

岩崎大昇の「男の人と女の人のあいだ」、「概念があんまりない」という美少年観に大昇らしさをかんじた。

〈難民キャンプに通った。旅の技術とは無縁の、旅というものが少しわかった気がした〉  下川裕治

旅が好きだ! : 21人が見つけた新たな世界への扉 (14歳の世渡り術)

『旅が好きだ! 21人が見つけた新たな世界への扉』――「14歳の世渡り術シリーズ」の1冊。

14歳への短文ということで、舐めた仕事するひともいれば、真摯なひと、深くえぐってくる、ふんわりと仕上げる、講義調などさまざま。その読み味が大人としてはおもしろい。

〈歳を重ねて「行動半径」が広がるから大人になるのではなく、「想像半径」が広がるからこそ、人は大人になるのではないか〉と清水浩史。

「今年もまた北欧へ行ってしまう理由」というタイトルで書く森百合子は自己紹介、いまの仕事の説明から北欧の話へと、ワンテーマをひと息に展開させて魅力的だ。

初めて北欧を訪れた時に感じ、いまも忘れられない感覚があります。それは「海外に来ているのにあまり緊張しない」こと。アメリカや他のヨーロッパを旅した時のような緊張感がなかったのです。治安が良いのはもちろんですが、例えばカフェに入って注文の仕方がわからない、バスの乗り方がわからないといった不安な場面で現地の人が急(せ)かすことなく、こちらのペースに合わせて待ってくれることにほっとしたのを覚えています。

旅に出ると、今後の自分を支えてくれる価値観や言葉に出会えることがあります。私が気に入っているのは、スウェーデン人がよく口にする「ラーゴム」という言葉です。「ほどほど」「ちょうどいい」といった意味で、食事の分量から天気の話やインテリアの雰囲気を表す時にも使われます。

 

森百合子のつぎがゴリゴリのバックパッカーたかのてるこ(『ガンジス河でバタフライ』)なのもおもしろい。

ひとは旅先で、似た感覚のひとあるいは対立してくるひととつながりがちかもしれないが、土地と触れあう経験もある。温泉漫画の松本英子は基本中年の一人旅を描くけれども、ここでは21歳のこと。「当時の私は精神的にどん底でした。いろんなことがうまくいっていなかったのです」

ところが訪れた山間の湯で「田沢のぬるい ほんのり硫黄のにおいのするお湯は だれ分けへだてなくこの私にも ひじょうにやさしい」

 

第3章「こんな旅があった! 歴史上の旅人たち」はどれも興味ぶかく読んだ。倉本一宏「平安貴族の奈良旅行」。出口治明イブン・バットゥータの旅」。金坂清則「イザベラ・バード――『信念の旅行家』の旅の生涯」。春日ゆらのマンガ「夏目漱石18歳の江の島旅行」。

情炎の相聞歌

おしゃれ紳士×梅棒『The Story ベランダカラミルモガタリ』観る。そのあと花園神社で唐組『ビニールの城』を。

 

『ベランダカラミルモガタリ』。おしゃれ紳士からは西川康太郎、池田遼、井内勇希、伊藤祐輔。

梅棒からは伊藤今人、遠山晶司、遠藤誠、櫻井竜彦、天野一輝。

さらに鈴木ハルニ、細川貴司、菊地浩輔、野間理孔、山崎丸光、いっとん。

上裸にネクタイと帽子というおしゃれ紳士のスタイルに、明快な歌詞のJ-POPで踊る梅棒の身体性が物語るのは、夜勤明けに自室のベランダでタバコをふかすアラサーの役者。

正社員のガールフレンドがいる。すれちがいの生活だ。それでもガールフレンドは「俺」を信じてくれている。

そんな「俺」の許に、ミカエルが現れる。地球の命運が「俺」に託された。

 

ミカエルや、ルシファーや、特異点宮本武蔵ジャンヌ・ダルクレオナルド・ダ・ヴィンチが味方につく。

ベランダからはじまる「俺」=篠原ケンジのアドベンチャーとアポカリプスは、中二病と呼べるようなもの。固有名詞の陳腐なパッチワークだから一寸現実とはおもえないが、ではほんとうに益体もない夢なのだろうか?

「俺」と固有名詞との戯れが導くのは「自分語り」だ。いま、劇場はこの「自分語り」から逃れられない。コロナ禍にあえぐ「自分」を語らずにはいられない。ゾンビや、ギーガー的エイリアンや物体Xを想起させるダンスもいまの状況なのだろう。

伊藤今人、野間理孔、いっとん、山崎丸光が印象にのこる。

 

 

 

そして池袋から新宿に移動。先日、花園神社の入口で『ビニールの城』の看板を見た。隅に書き足された「電話ください」の一言が、つよく訴えかけてきた。予定を合わせた。

前説は座長代行の久保井研。なんだかぼそぼそと、生真面目なことを言っている。これが罠だった。劇中いちばんの怪演が久保井研だった。

『ベランダカラミルモガタリ』にも前説があった。やはり遅効性の、企みのあるものだったけれど、〈信じてほしい〉と科白するほどには「俺」は「観客」を「信じていなかった」かもしれない。

 

おどろきがあれば、ひとは目のまえのことを信じる。

唐組の舞台はおどろきの連続だった。その戯曲は詩のようで、ト書にはムチャなことばかり。うごくはずのないものがうごく。できなさそうなことが、できてしまう。大変なのは俳優たちだ。

初演は1985年。〈デリダ〉とか〈ポストモダン〉なんて単語がでてくる。劇団第七病棟のために書かれた男と女の恋物語。憶病な男と、城。どこか『華麗なるギャツビー』のようでもある。

男は腹話術師で名を朝顔という。人形はユウちゃん。夕顔である。

男に恋情を打ち明ける女はビニ本のモデルをしている。モモと名乗る。

両人ともフィクションに縁ある仕事だが男はその虚構にのめりこんでおり、女はつよく現実を欲していた。

腹話術師の朝顔は頑なにウブ。少年性というのか、原理原則から離れようとしないが、世界は幾重にも捩じれていて、モモは腹話術の人形とおなじ愛称をもつユウちゃんという人物と結婚する。ユウちゃんはユウちゃんでモモの望む人形になろうとする。『ピグマリオン』や『人形の家』の変奏でもある。

 

『ビニールの城』は身分差、貴賤を問題にしなかった。朝顔とモモは虚構性をめぐって悶えた。

コロナがなくてもひとはウラミツラミのなかにある。苦しみは偏在している。だから愛をもとめるし、愛がまた憎しみを呼びこむ。

愛憎に特権的ななにかをあたえるのがこうした芝居かもしれない。

出演は久保井研、稲荷卓央、藤井由紀、福原由加里など。