大漁、異漁。耀

タイトルは タトゥーのようなもの

「できますとも。ここは東京なんですもの」

ブレイヴステップ公演『私の下町(ダウンタウン) 母の写真』観る。

町のにぎわい、ひとびとの醸しだす活気。そういうものが演出され、演技をされて揺さぶられる。舞台の醍醐味は、小屋にいながらその天井をわすれる没入の時。奥行だってどこまでもひろがる。生身によって成される無限、永遠。それを観ることができるからベテランの舞台はおもしろい。

物語は日中戦争前夜から東京大空襲まで。「私の下町」というタイトルどおり多分に自伝的でもあるが、戯曲にも演出にも重苦しくならぬ工夫がいくつもある。周囲の地名はそのままだが舞台となる小網町だけが「古網町(ふるあみちょう)」へと変えられて、案内役(磯貝誠)はどこから物語をはじめてもいいけれどとりあえず昭和十一年一月一日にしようと韜晦する。

案内役の母は旅館を経営している。この女将に春風ひとみ。初演時(1994年)もおなじ役だったという。その頃の生真面目で、尖っていたことの失敗りがパンフレットで語られている。原作者で対談相手の福田善之(1931年生)は会場にも来られていたし、お元気そうで何より。

春風ひとみは子役出身の宝塚育ちだから、小劇場的な役者を知らない。だから「びっくりしたのは稽古中に劇団の女優達はジャージ姿で、稽古が終わるとお化粧してバイトするために夜の町へ消えていく。それがすごいカルチャーショックで」。

「出来てないのに帰るの? 音が取れないなら寝ないで喉が覚えるまでやるんだ! って、宝塚時代からそう生きて来たから。だからお稽古の時に先輩の役者さんにもそういう風に言ったの。ひどいわ(笑)」

話を受ける福田善之が佳い。「絶対音感がある人が何人かいたって、それで全体の質が上がるかといったら全然そうでもない」

舞台芸術について福田は「人間の面白さに尽きるよね。舞台の面白さは。だから宇宙の中にいるからもっと面白いんだよね」と。宇宙とか、魂とかいうワードがばんばんでてくる。

福田 芝居っていうのは、魂を揺り動かしてくれればそれでいいわけであってね。でも魂ってものは自分だけで作るものじゃない。天とか地だとか地球の生きとし生けるものの中で一緒に生きてて作るものなんだから、なんて別に理屈言ってもしょうがないわけだし、言う必要もない事なんだから。

宝塚は黒か白かの世界だったと春風ひとみは語る。「上級生からカラスは白いわよねって言われたら、はい白いですって言わなきゃいけない世界だったのね」

しかし、「黒か白かって結論を出すのが演劇ではなくて、黒か白かわからないグレーの部分を探っていくのが演劇だっていうイメージの形を教わったのは福田さんですね」と。

春風 そこまでに来るのが長かったなぁ、春風って(笑)。

 

グレー、というのは共同体のある種の理想化でもあろう。特高もやくざも登場するが、旅館の女中や娘との恋愛をとおして穏健な人物へと変貌していく。

特高役、翁長志樹。やくざ(元やくざ)に紺崎真紀。弓屋旅館の娘には新澤泉。旅館の旦那で相場師の善治郎に井村昴。女将の甥に、志村史人(逃亡者の役も)。

番頭、菊池均也。女中には伴美奈子、茜部真弓、菊地歩、木村晶子。

神敏将は警官と、キザな洋装の高見沢。女中の婚約者として石坂史朗。声の出演で、隠居の役に久松夕子。

所属でいえばキューブやPカンパニー、民藝、扉座俳優座など。錚々たる俳優陣でちいさなサンモールスタジオのなか歌ったり踊ったり生演奏したりと旺盛なサービス精神。おどろき、満たされた。

汗を掻く 歯が欠ける 夏に跳ねる

『ザ少年倶楽部』、NHKホールにもどってくる。「みなみなサマー」と「未来SUNRISE」が聴ける回。心身共に愛しいのは佐藤龍我だけれど、那須雄登の体現するアイドル観も物凄くフィットする。キラキラ、といっても信号機の明滅みたいにキラキラキラキラキラキラしていればいいわけでもなく、光を放ったのちの静謐。那須雄登のみせるキラリ、キラランはのびやかで落ち着きがある。

Go! Go! kids とジャニーズJr. による「恋はあせらず」。希望由来の緊張が好い。羽村仁成のこなれた笑顔でグッと安定した画になる。すごい。

 

「ひとのことを見なくなるんだよね、あるときから」と髙地優吾。「じぶん見てるのがいちばん楽しいのよ」と田中樹。「ひとのなにかをこう、ね、たとえばアラ探ししたり、ひとの誉めるとこ探すくらいだったら、おれ鏡見てるほうが楽しい」

京本大我のコンプレックスが喉仏のないことだったり、本髙克樹が中学二年生のときに自転車でジャックナイフし歯が欠けた話(「皆さんも怪我した際は、血ィ出てなくても歯は確認したほうがいいですよ」)だったりと、「夏休み」らしいエピソード集。

Jr.SP の「センセーション」。機敏で流麗。

 

深田竜生(きれい!)、川﨑皇輝(どんどんアイドルになっていく!)、田村海琉(健やかで、儚い)の3ショットが圧倒的な「光のシグナル」。舞台的な演出が、少年忍者の配置を立体的にして、良かった。

 

「未来SUNRISE」は忙しい曲だ。汗ダラッダラの佐藤龍我。猪狩蒼弥はマットなメイクが決まるとかわいい。

開演13時、終演予定15時20分。押した。

春風亭一之輔のドッサリまわるぜ 2022』、よみうりホール。

オープニングは私服姿で春風亭一之輔。これだけで会場が盛りあがる。

開口一番は春風亭与いち「金明竹」。

一之輔は「加賀の千代」「反対俥」。仲入りあって「百年目」。

 

「加賀の千代」はご隠居さんが甚兵衛にデレデレというBL。

甚兵衛は、借金ばかりこしらえて、女房にあたまのあがらぬ粗忽者。女房に言われる。犬や猫をかわいがるひともいる。朝顔をかわいいとおもうひともいる。「朝顔がかわいい?」「朝顔につるべ取られてもらい水」、加賀千代女の歌だ。20円借りてこいと。

8円5、60銭あれば間に合うけれど、言った半分しか貸してもらえないかもしれない。10円借りに行って半分の5円じゃ帯に短し襷に長し。だから20円。

甚兵衛がご隠居さんを訪ねるとポンと20円貸してくれる。「かわいいねえ」と連呼しながら。「そうじゃないんです」と甚兵衛。120円? とご隠居さん。「ちがうんです」220円? 300円? 500円? 1020円?

いくらでも用立てしてくれようとする。格差ある愛。

 

「反対俥」。本来は、ヨボヨボの車引きじゃあちっともすすまないので威勢の良い車引きに乗り換えたものの、すすみすぎてしまう困難という、そういう噺だけれど、ヨボヨボのパートのみで成立させる。「加賀の千代」と「反対俥」でよみうりホールが大爆笑。

 

よみうりホール、2023年に改修に入るという。便座のような客席、と一之輔が笑わせる。

よみうりホールに語りかける。袖の夢空間にも語りかける。

学校寄席の話。シネマ落語のようにたっぷりの尺で、『魔女の宅急便』の話。

春風亭一之輔はここ1、2年で貫禄がつき、バランスも良くなった。「百年目」はおおきいホールにしては落ち着いて演り過ぎたような気もするが、満足。

〈時々、自分の人生を「物」みたいに、客観的に考えるの〉  田村セツコ

人生はごちそう

イラストレーターとしてお仕事する前、私は銀行員だったの。周りの人はみんなすごく優しくて、でもイラストを仕事にしたいと思ったから、自分の希望で退職したの。

家族には、「愚痴は言いません。後悔しません。経済的負担はかけません」と誓って辞めたから、イラストのお仕事がどんなに大変でも、家族に「どうだった?」って聞かれたら、「すごいうまくいってる」って嘘ついてたわ(笑)。

その代わり、日記帳には随分いろいろと、ありのままに書いてた。

日記帳は、話し相手であり、親友であり、お医者さまでもあったの。

田村セツコ『人生はごちそう』。ほどほどに呑んで、アレンジするかんじ。たとえば「忘れる練習・田舎の勉強・京の昼寝」というのは「忘れる練習」と「田舎の勉強より京の昼寝」を田村セツコ流にまとめたもの。ぽんと完成形がでてくる。過程にこだわらぬつよさ。ニーチェやアランを拾い読みして気ままに取りいれていくのは子供っぽくて大人っぽい。学生の硬さと縁遠いのは、追求をしないから。

〈贅沢ぎらいで、屋根裏部屋の苦学生のような生き方がしたいの。

屋根裏部屋の苦学生の本と珈琲を前にして暮らしてるイメージが大好き〉

〈説明するのが大変なときは、「それが趣味なのよ」って言えばいいわけ〉

一度、風流な男性に出会ったことがあるの。

ある人が同じ年代の人よりも若く見えるその男性に、「○○さんと同い年なんですか。お若く見えますね」って言ったら、彼が「いやいや、僕は金を持ってないんで」って返されたの。

彼が言うには、お金持ちになると用心深くなって老けちゃうんだって(笑)。

 

完璧を目指すことは個人の自由だけど、目指すことによって、その人は窮屈で神経質な感じになって、眉間にシワが寄ったり、イライラしたりする……。

なんだかそういうのは、とってももったいないと思うの。

それに、そうなると逆に完璧から遠ざかっちゃうわ。残念ね。

 

〈物事や人生で得しようと思うのは、元気な証拠っていう感じはあるけど、損することを厭(いと)わない、イヤがらないっていう心の広い、気楽な気持ち・心構えでいるといいわね〉

〈得するより損するほうがカッコいいとかそういうのじゃなくて、軽くてお洒落っていう感じかな〉

〈握ったままだと、何も得られないもの〉

 

ふわり、とした性分のほうがするどくもなれるのだろう。忙しくみえてもずっとおなじ回転数というひともいる。とっさのときの集中力や飛翔、沈潜。メリハリというのはどこかだらけたところが要る。

「世界はわたしを娼婦にした。今度は、わたしが世界を娼婦にする」

シリーズ「声 議論、正論、極論、批判、対話…の物語 vol.3」『貴婦人の来訪』観る。初演は1956年。作、フリードリヒ・デュレンマット。

失業者あふれる町ギュレン。17歳のときにこの町をはなれた少女が、45年ぶりにもどってくる。富裕な貴婦人となって。この町に融資をしたい。1000万や2000万ではない。10兆。

その代わり、かつておなかの子を認知しなかった初恋相手の男をだれかがころすこと。

 

作品解説の増本浩子(現代ドイツ文学・スイス文化論研究)は〈デュレンマットによると、アウシュヴィッツヒロシマ以降の世界に生きる現代人を脅かしているのは、「もはや神でも正義でもなく、交響曲第五番のような運命でもなくて、交通事故や設計ミスによるダムの決壊、注意散漫な実験助手が引き起こした原爆工場の爆発、調整を誤った人口孵化器」である。因果関係はもはや成り立たず、偶然に翻弄されるこの「故障の世界」において、従来どおりの文学(悲劇)を創作することはもはや不可能であると主張して、デュレンマットは自作のほとんどすべてを「喜劇」と名付けた〉と。

 

全体主義や大衆の匿名的な正義。暴力。不条理。疎外。孤独。それを男性的に表現せず、いまで言うなら#MeToo 、力を得て帰還した女性による告発として発動させるところが巧い。根ぶかい愛憎の物語だ。

デュレンマットの戯曲にすべてが呑みこまれていく。若く無責任で信頼に足らぬ男の愛情という、だれにも身に覚えのある咎を、死を以て償うこととなるのだから、これはスリルがある。翻訳、小山ゆうな。演出、五戸真理枝。

貴婦人となったクレールは左脚と右腕が義足義手。冒険に明け暮れて財を成し、ちいさな町にもどってきた。7人目の夫と共に。みじかい滞在の間にも離婚、再婚、離婚、再婚と9人目の夫ができてしまう。世界は故障ばかりではない。甚だしい誇張もある。

衝動的なようで執念ぶかく深謀遠慮なクレールは、60歳に手が届こうというところ。凝り固まった邪念ならば見ていられないが、秋山菜津子は潔癖な少女だった。男に裏切られたときではなく、それ以後でもなく、幸せで、好奇心に満ちた、永遠を予感できた《あの頃》のような、可憐だった。少女アリスを《不滅》と評したひとがいた。それをここで視るとはおもわなかった。舞台俳優というのは凄い生き物だ。

初めは『グレート・ギャツビー』と通底する、生者と生者の愛憎劇だろうと観ていた。しかし宣言どおり復讐は果たされ、初恋相手のイルが棺に納められる。その死顔を見たクレールは「あの頃の、黒豹の顔にもどった」と満足そうに微笑んだ。このかんじは、オスカー・ワイルドだ。『サロメ』や『王女の誕生日』の残酷で愛情いっぱいの《不滅》の少女。

パンフレットによると「デュレンマットはもともとこの物語を男同士の話として書き始め、途中で男女の話に変えました」(小山ゆうな)。そこに流れる愛憎はカフカよりもオスカー・ワイルド、『グレート・ギャツビー』よりも『太陽がいっぱい』のようだった。

デュレンマットの戯曲には「芸術が芸術家を生み、芸術家が芸術を生む」といった警句も多い。舞台に掲げられる「人生は真剣、芸術は活力」もそう。ワイルドの「ジャアナリズムというものは読むに堪えないし、文学は今日では読まれていない」などと比べると元気がある。

 

相島一之によるイルの困憊や諦念も素晴らしかった。山野史人(執事)のファンキーが序盤を救っていた。

ほかに加藤佳男(町長)、外山誠二(牧師)、福本伸一(駅長/医者)、津田真澄(教師)、山本郁子(イルの妻)、斉藤範子(町長夫人ほか)、高田賢一(警官)、谷山知宏(画家)、田中穂先(息子)、田村真央(娘)、清田智彦、高倉直人、福本鴻介。

上演時間3時間(休憩15分)。

〈若い頃にお会いしていたらきっと喧嘩になったろう。そう考えると年を取るのも悪い事ではないのかもしれない〉

夢幻紳士 夢幻童話篇

デビュー45周年、「夢幻紳士」シリーズは9年ぶりの刊行という刻の話題から沁みるものある。短篇という美しい形式によって養われた世界が、やわらかな奥行をみせる。

するどくなめらかな反復と螺旋。夢使いとして自他の想念に入りこむ。妖の裏を掻く。夢幻紳士・夢幻魔実也はぜったい敗れないだろうとおもいながらもハラハラと読む。

高橋葉介『夢幻紳士 夢幻童話篇』。「燐寸売りの少女」や「人魚姫」といった古典のズラしかた、深めかたはほんとうに巧い。ひねり過ぎずにちがう味をだす手練。

単独行では奇譚のリアリティがあやういために生まれるバディ。今作は、健やかで好色なボクっ娘の千華坊が話を転がし、妖をまねき寄せる。現実世界では中小企業のエロス社長に食い物にされそうな千華坊。魔実也がスマートに円熟していて良かった。

「あとがき」が泣けて泣けて仕方ない。デビューからここまでの、たくさんのひとへの感謝。

〈最後に、夢幻魔実也氏に感謝する。漫画のキャラクターなどというものは作者が頭の中でひねくり出すものではなく、“外から”ポンッ! とやって来るのだという事を最初に教えてくれたのが彼でした〉とも。

やんちゃなくろねこ、風をつくる。

映画版くろねこルーシー

『くろねこルーシー』(2012)。映画版は、テレビドラマの前日譚。陽の父・賢を主人公にしたメルヘン(猫はしゃべらない)。

迷信を信じ過ぎるために占い師として大成できない鴨志田賢(塚地武雅)。隣のブースの同業者(濱田マリ)にキャラを立てろと助言されたり、黒猫をめぐって男(住田隆)とモメたり。

キャストはサコイ、峯村リエ直江喜一佐戸井けん太生瀬勝久大政絢安めぐみつみきみほなど派手過ぎないのでワクワクできる。冒頭、墓参の山本耕史京野ことみはテレビドラマで主演だった。子役の村山謙太は少年期の大人しい、物分かりの良さをきれいに表す。

 

賢のまわりの「大人」たちはシビアである。皆、リアリスト。そのなかにあって賢はふしぎとうまく行きはじめる。にがてだった黒猫と暮らすようになってから。

こういう、努力や才能と無縁なのにミラクルな話に弱い。なぜかハッピーエンドが待っている。鴨志田賢の優しさと、かつて訪れたひらめき(霊感。降りてきた)のためかもしれない。そのことが語られるのは終盤だ。

監督、亀井亨。脚本、永森裕二