大漁、異漁。耀

タイトルは タトゥーのようなもの

〈どうせ私は、自分でも、いゝ行末は持つてないつて思ふンですけど、そンな事はどうでもいゝのね。行末なンて興味がないわ〉  林芙美子「瀑布」

瀑布 恋愛が、どこかで生活や経済にむすびつく。あいてにそれをもとめなくても、あいてにそれをみとめないということはある。けっして精神的なものでは済まない恋愛。女性的な。
林芙美子瀑布」。戦後、それも大都会の様相だ。〈文明的なものと原始的なものが、不安もなく交流してゐる。不思議な世界に変り果てた、都会の夕景を眺めて、直吉は、呆んやりと足の向くまゝに歩いた〉

ネオン・サインが方々の建物にきらめき、忙はしさうに人々は流れてゐる。若い女も喜々として歩いてゐる。光つた自動車が、しゆんしゆんと直吉のそばを滑つた。

出征当時の乏しい街ではなかつた。何処から、こんな町がにゆつと現はれたのかが不思議だつた。

何処かで子供が産まれ、何処かで死者を葬つてゐる毎日の、人間の営みが銀座の四辻には、一向感じられない。みんな永遠に生きてゐられるやうなそぶりで、人波は行きつ戻りつしてゐた。

この「永遠」の感覚が勝者のものではないこと。そういう見方が、好い。〈平板な敗者の安心感だけで、どの東京人の顔も、懐疑的な表情で歩いてゐるものはない。嘔吐をしたあとのすがすがしさである〉
直吉は〈名前だけの夫婦関係〉をつづけている。あいての里子とはすでにずれが生じている。
〈見覚えのない紫お召の羽織を着てゐた。時々直吉の手に触れる、お召の感触が冷たかつた〉


〈直吉はよその女と出会つてゐるやうな気がした。甘い匂ひがした〉


女は、生活をしたい。じぶんを持ちたい。若い男が胸に抱きがちな諦観などはいらないわけだ。感慨や分析は、臆病なだけで暴力の一種だ。暴力など子供じみている。

里子は何時までたつても、別れませうとは云はなかつたけれども、身についた仮装で、その場しのぎに、獣と化した直吉をあしらつてゐる。直吉は素直にあしらはれた。素直にして里子に安心をさせてはゐたが、何時か恨みは達したいと胸に深くふくんでゐる。孤独だつた。

書き手が、男の暴力をあぶりだす。それを悪童、少年性といったかたちで肯定しない。
暴力の世界をみとめつつ暴力のあくどさに徹することのできない男はただみじめだ。みじめな内面に対しては女になってしまえと、男女どちらにとっても第三の性である道を示したくもなるけれど、男、という性自認はなかなか揺るがないのだろう。安定の帰属意識
よわい男に女は言う。〈ちつとも、貴方以外に好きなひとはいないのよ。あつても、すぐ醒めてしまふの〉
ほかに好きなひとができましたという暴力ならば簡単だけれど、そうでないから厄介だ。