大漁、異漁。耀

タイトルは タトゥーのようなもの

「あいにく、その男性のすべてが異性愛者というわけではないんですよ」

事件の後はカプチーノ (コクと深みの名推理 2) (ランダムハウス講談社文庫)
マーク・セラシーニとアリス・アルフォンシ、夫婦合作の名義クレオ・コイルによる『事件の後はカプチーノ (コクと深みの名推理 2) (ランダムハウス講談社文庫)』。シリーズ2作目から読みはじめて、男女合作の視野の広さをかんじる。マンハッタンという舞台の先進性もある。土着ではない意地のわるさ。シニカルな文章が好かった。
ゲイもでてくる。性的指向の多様なことが前提されている。
〈「この街には常軌を逸した人間がうじゃうじゃいるのよ。いったいなにを期待しているの?」
「常軌を逸した?」ジョイがききかえした。
「うさんくさい。わがまま。不愉快。罪深い。いくらでもいい換えてあげる」キーラはクロスワードパズル・オタクなのだ。「ここはね、麻薬中毒の子たちがサーフィンがわりに地下鉄に乗るような街なの。そういう人間は虫けらみたいに轢かれても文句はいえないでしょうよ」〉
コーヒーハウス・ビレッジブレンドのマネジャー、クレア・コージーが素人探偵として活躍する《コージー・ミステリ》。コージーという姓がすでにひとを喰っている。
ひとのあつまる都会のコーヒーショップ。素人が殺人事件を解決しようとすればどうしたって翻弄される。出口がないというよりは、つぎつぎに扉の現れるおもしろさ。

ニューヨーク・タイムズ》は地下鉄構内でのバレリー・レイサムの自殺を、いかにも《タイムズ》らしく節度ある記事にまとめていた。しかしタブロイド紙の《デイリー・ニューズ》と《ニューヨーク・ポスト》は第一面にどぎつい文字が躍っていた。
「この世で最後のコーヒー」、「コーヒーとともに死のダイブ」といった見出しとともに、ほぼ同じような写真が第一面に載っていた。地下鉄の汚れた線路のまんなかにビレッジブレンドの紙コップが転がっている写真だった。地下鉄の車体の下部にスペースがあったためにレールとレールのあいだに残された紙コップはまったくの無傷で、それがかえって不気味に見えた。バレリーは紙コップのようにはいかなかった。あたり一面に彼女の血が飛び散っていた。この異様なコントラストが、カメラマンの職業病ともいえる好奇心をそそったのだ。

視覚的であり、役割分担ができている。語り手がひとりで何役もこなすような下種い奮迅とは無縁だ。
「わたし」の一人称。それと、「天才」と自称する犯人の一人称。「天才」はいかにも信頼できない語り手で、交互に語られることで緊迫感が高まっていく。「わたし」の周辺に迫る危険よりも、「天才」の破綻していく様子が、興味ぶかい。