大漁、異漁。耀

タイトルは タトゥーのようなもの

「世捨人になって研究をするより、もっと研究費をよこせ、と叫びなさい」

ムツゴロウの素顔 (文春文庫) 畑正憲ムツゴロウの素顔 (文春文庫)』。
〈商魂とか、売名とかいうのは、一体何であろうか。
売名をするなら、私はもっとましなところでするし、商売をするのなら、もっと利益のあがる方法をとる。私は文章を書いて暮す人間は、外れものだと思っているし、個人的なドリルだと信じている〉
〈私の本業はエンターテイナーであり、道化である〉
さいしょの「動物の敵」からパンチが効いている。啖呵の切りかたが、文学青年だ。あいては畑正憲を「誤読」した訳者。


自然や都市のつかみかたが、好い。
〈頭が痛くなるのは、空気のせいらしい。東京の空気は油くさい〉


意見を暴走させる。ベストセラーとなったエッセイにそういうものが多いのは、熱がリズムを生むからか。
〈北海道の住人になっている現在、悪口を言うのは気がひけるけれど、白状するなら、札幌のラーメンなんてさほどうまくない。うまいものの一つとしてどうしてこれほどもてはやされるのか、私にはさっぱり分らない。
(……)


米がまずいので、ラーメンをうまく感じたわけだ。それがいつしか伝説になって、ラーメンは札幌となってしまったのである。
私は矢張り、ラーメンは九州だと思っている〉
安くて、どこかにしつこい俗な味が隠されていてこそラーメンである。
博多のラーメンは、味が濃くて、熱いうちしか食べられない。冷えると、脂がかたまって、べとついてどうにもならないのだ。その下品なところが素晴しい


時間。大人。子供。


〈子供が成長するのの何とはやいことか。無人島へ渡った頃は、裸で一緒に風呂に入ったというのに、現在では、一緒に入ろうとしようものなら張りとばされる。
親の方は、まだ学生気分が抜けていなくて、東京へ出ては誌上麻雀対局などに顔を出し、勝った負けたと騒いでいるのだ。たわいもないものである〉


阿佐田哲也についての批評が的確。メジャーなあいてに対しては、そういうものだともおもう。
棋士の中山典之を褒めている。
〈文章に於ける素人芸とそうでないものとを、どこで見分けるかと訊かれると、ちょっと困る。碁のように、強いものがプロだわい、と言うわけにはいかないからだ。味が違うというしかないのだけれど、無理をして理屈をつければ、次のようになる。
まずアイデアだ。複雑きわまりない現実を切取るアイデアがいい。ここぞという芯をつかんで、それを中心に据え、一つの興奮をつくりだしている。
サービス精神にも触れねばなるまい。伝えたいことを、誰にも分るように、言葉を並べていく。一つ面白がらせてやろうという精神が紙背にある。
次には書きたい、書かねばならぬという気魄みたいなものが、行と行の間にしたたっていることである。このしたたりがあるからこそ、文章にリズムが生じ、艶が出来てくるのである〉
べつのところでは《精神の艶》という表現をしている。「運動部アレルギー」
〈人はさまざまだ。強い人もいれば、弱い人もいる。むしろ弱い人間の方が多くて、あやまちを犯す度に強くなっていく〉
〈──誰かが間違いをしでかしたから試合は辞退する。
そんな戒律を持っているのなら、のっけから人を集めて何かをすることなどやめた方がいい〉
〈ほとんどのスポーツ部に残る残酷でいかがわしい体質〉によって〈精神の艶みたいなものが、殺されてしまっていると思いませんか〉という流れ。
中山典之の話に戻そう。


〈ともあれ私は、このような立派な作品を書く中山氏はどんな人だろうかと、手元の資料で調べて愕いた。失礼な言い草だが、四段という低い段位を持っているから、さぞやまだ若いと思っていたところ、なんと生れが昭和七年であった。人生に於て、私より先輩である〉


昭和囲碁風雲録(上) (岩波現代文庫) 昭和囲碁風雲録(下) (岩波現代文庫) 完本 実録囲碁講談 (岩波現代文庫)