大漁、異漁。耀

タイトルは タトゥーのようなもの

〈女は、縁が切れる前に修羅場を演じつくす。切れたあとで、つなごうとしてわるあがきしない〉  田辺聖子

女の長風呂(1)

男の話をきいていると、彼らはそれまでの人生で、たいてい一つ二つのまがり角というか、ムスビ目のコブをもっている。戦中派だと、たとえば、敗戦のショックとか、学生運動の挫折、なんてことをいう。
しかし女には、そんなものがない。

田辺聖子女の長風呂(1)』。男と女とか、今と昔とか、東京と大阪とか。田辺聖子がヒイキするのは弱いほう。女が弱いときもあるし、男が弱いトキもある。一方的にどちら、と決めているわけでないのが、いい。
〈女は生まれおちるときから死ぬまで、オシバイを好む動物である〉。この《芝居っけ》と男のマジメな《ムスビ目》《挫折》とをならべるだけでもかんがえることは尽きない。女のドラマは挫折で終わったりしないよなァと。

女はべつにホテルや飛行機の中だけがロマンチックだとはかぎらぬと思う、せまいながらも楽しいわが家、団地の2DKだって愛のオシバイの道具立てはそろうのだ。ほんのちょっぴり、男がロマンチックなお芝居っけを出し、口うらを合せて愛のむつごとをささやいてほしいと思う。

ロマンチックなものにあこがれる、かつての女学生にとって〈戦前、戦中の、中学生〉は神秘的で凛凛しかった。
〈中学生というのは、もうなま身の人間ではないのだ。遠からず戦場におもむいて玉砕し、軍神となる、そのタマゴであるのだ。我々女学生としてはその後姿を伏し拝みたい心地、イロの恋のという存在ではないのだ。ないのであるが、そばを通っただけで、心ときめきするのは致しかたない〉


〈四十にもなった男女が、情を通じたりするなんてことは到底、信ずることができなかったのだ。そんな関係は、せいぜい二十二、三までの未婚の青年子女にのみ存在するように思っていた。いかに若い頃といっても、思えばじつに過酷で世間知らずな偏見であった〉