田辺聖子『女の長風呂(2)』。〈人間、四十のゾロ目をすぎてみれば、人生に「怪しげなふるまい」なんてあるはずがないと、と思うようになった〉
私の場合、小説を書くとき、ある情趣が湧いて男を描く。それは、ほんの些細なことを、男にもらって、感興を起こすことが多い。
その感興を、女にもらうことは、少ない。
これは、エッセイ『女の長風呂』から読みとれる男女の差というものだろう。女には《芝居っけ》がある。ロマンチックなものをもとめる。女たちそれぞれすでに物語があり、完成しているわけだ。もちろん途上であるにしても。
男にはそういう、死に至るまでの長いドラマがない。男には断片ばかりある。素材だ。だから見ていて小説になる。
田辺聖子は〈男は一匹の老いたる狼となって曠野を行け〉とも書くけれど(同時にアワレで、イトシイものでもあるけれど)、孤高というのはロマンを排して進むほかなく、《甘えたい》《抱かれたい》といった関係やらストーリーを孕むものとはちがっていってしまう。
〈血みどろさわぎの好きな暴力男というのは、性粗暴にして流言にまどわされやすく、自己陶酔に陥りやすく、懐疑ということを全く知らぬ井戸の中のカワズ、いかな気のよい慈母観音のおせいさんだとて、こういう手合にだけは、やさしい顔を見せていられない〉
〈「血ィが出て身ィが見える」ほどして、獲得せねばならぬ価値あるものがあるか?
ない。
ないよ。ないんだよ〉
〈男は好色精神にもマジメが入る〉
〈右手に目もさめる若い美女、左手にモッサリした冴えない中年のおばさん、その中に挟まれた男としては、当然、右手の若い美女に関心がいく。これは男という男、九十パーセント、マジメ人間だからであり、ごじぶんの欲望や関心にマジメ忠実だからである〉
私のねらいは、ユーモア、というようにリッパで格調たかいものではない。私は、もっと低い次元で、それだけになおさらふんだんに人生にばらまかれ、金粉のごとく浮游している「ソコハカとなき」おかしみみたいなものを捉えたいのである。
私はごくふつうの、恥ずかしがりで人見知りして引っこみ思案の「女の子」にすぎない。
誰の前でも、ここに書いてあるようなことをしゃべっているわけではない。
お酒を飲んだときとか、カモカのおっちゃんと会ってるときとか、つまり、心をゆるしてるときだけである。
だから、これは、ごくふつうの女の子が(女はいくつになっても、女の子という要素がある)考えたり、疑問をもったり、しゃべったりしていることで、ことさら特異なものではない。