大漁、異漁。耀

タイトルは タトゥーのようなもの

「人間を信じるのは、疑うのと同じくらいいけないことだ」  安部公房

反劇的人間 (中公文庫)
ドナルド・キーン安部公房の対談集『反劇的人間 (中公文庫)』、まえがきは安部公房。みじかいながらも視点を変えて引っくりかえすなめらかでしっかりと濃い安部公房で、わくわくする。冒頭で客をつかむ。

キーンさんはコロンブスの末裔である。あいにく大陸ではなかったが、日本文学という未知の群島に辿り着いてしまった冒険家なのである。ぼくも発見された群島の一つらしい。ただし、ぼくの場合、一方的に発見されただけではなかった。キーンさんは気付いていないかもしれないが、島にも眼があり、観察能力があったのだ。こちらもちゃんと、その驚くべき未知でゆたかな人格をひきよせ、発見することに成功したのである。はるばる大海をわたるという苦労をしなかったぶんだけ、得をしたのはこちらの方だったかもしれない。


《悲劇》というものの特殊性や市民性。渦中の人物が王であればもちろん特殊だけれども、市井の人物であっても事件や行動に立ち向かうことで悲劇を生む。
「平均をはずれたものの悲劇を描くことによって、いまのみんなの置かれている平均的状況というものに、想像力のなかで窓を開けてやる、というか、抜け道をつくってやる」と安部公房。「自分は平均値からはずれて、お伽ばなしの世界にも行けるのだけれど、選んで平均的日常の中にいるのだ。いまはここにいるけれども、明日はもしかしたら出るかもしれない」……。

安部  日本人はとても自分自身に嘘をつくのが上手だという気がしますね。こういう事実は、日本人はあまり話したがらないのです。しかしこれは厳然たる事実です。
日本人はよく群がるという、実ははじかれるのがこわいのですよ。なぜかといったら、もともとはじかれた状態で生きているからです。

たとえば敗戦後、中国大陸で日本人が中国人たちに取り囲まれたとする。ほかの国の人間だったら自国の仲間が不利な状況にあると加勢するけれど、日本人は「見て見ぬふり」をする。安部、「これはあんがい発達しすぎた江戸文化の隠れた側面なのかもしれない。非常に個が確立してしまって、冷たくなったために、暖かさとか人情とかが逆に文化の一つの基準になった。日本人は個としてそういうふうに孤独だから、ある群衆を組んだときに、異常に群衆心理が出る。酔ったようになる。それは滅多にないことだからです」。


熱狂のさなかにことばをつむぐことはできない。安部公房は小説の方法としてダーウィンをもちだす。「観察の方法というのは、いつでも、特殊なものを即物的に観察する方法をとって『進化論』の方法が展開するわけですね。これは正しい方法だし、ぼくの小説の方法も、だからいつでも、なるべく概念から出発せずに、たとえば見えるものとか、さわれるものとか、そういう具体的なものから始めるように心掛けています」
「どんなに自分の生理的想像力に忠実であろうとしても、ほかに知識がありますから、ついはみだして書いてしまう。しかしそれをどうやってはみださないで、自分の生理構造の経験のなかに閉じ込めるかということですね。これをぼくとしては小説の一つの原理にしているのです」