大漁、異漁。耀

タイトルは タトゥーのようなもの

『まんが道』はAF(アナルファックではなくてA×F)

俺たちのBL論
東京堂書店、「サンキュータツオ×春日太一の文化系食わず嫌い講座──BLの豊饒な世界 第3回 発展編」行く。
お二人、前日のクロヤギ交えてのイベントの感想からはじまる。恋バナ。恋バナそっくりの恋バナ。「なりチャ」の話。
芸人クロヤギが「なりチャ」をしている。なりチャ? 「半なり」や「完なり」といった単語もクロヤギからでてくる。イベント後の楽屋でのことだそうだ。別人格で架空の恋愛をする。
そのとき分泌される脳内物質はおなじだから疑似恋愛と呼ぶのはおかしいだろうとおもうけれども、なんでも切り分け、切り離し、名づけするサンキュータツオにとってはきっとなりチャは疑似恋愛だろうし、トークイベントでもしつこく「BLはファンタジー」と言っていた。
ファンタジーだから、男同士だから暴力もオッケーというのがサンキュータツオの考えで、それと対照的なところに百合がある。BLは超合金。ゴツゴツしている。そういうふうにレッテル貼りするのが超得意なサンキュータツオの弱点はオートマティックに仕分けしがちなところであり、ゴツゴツしている女同士のマンガ『羣青』(中村珍)はBLになってしまう。
それに反論する春日太一が美しい。男の世界ではあり得ないフィフティフィフティな人間の関係を『羣青』はえがいていると。
サンキュータツオが『羣青』を「映画的」と言えば「映画的ではない」と返す。「会話やモノローグを多用したフランス映画にはなるけれど。それは映画的というようなものだろうか」
春日太一のBL観は信頼に値する。「攻」と「受」という社会的な上下関係がどこまでもつきまとうのが男なのだと。男の「友情」も「恋愛」もどこかに主従の力の差がある。
春日太一にとってのBLの読みどころは《繊細さ》や《実存》だ。僕たちはダンジョンに入る仲間だとサンキュータツオが喩えると、春日は自身を「サマルトリアの王子」と称する。「すぐしぬ」
その春日だからBLを読むことができる。外側で萌えているのでなく、没入し、わが身に引き受ける。
「1冊でも多く売れてほしいが、売れないでほしい気もする」と春日太一が語る『俺たちのBL論』は、公開講座のあとの追加対談分が赤裸裸で好い。
このトークイベントでは春日太一「おれは『めんどくさい女』なんですよ。といいっても男から見てめんどくさい女じゃない。帝国ホテルの立食パーティーとかで『なんでこんなところにいるんだろう』と醒めていながら、だれもあいてをしてくれないのはいやだという、そういうじぶんでじぶんのめんどくささを持て余しているタイプの『めんどくさい女』なんですよ」。
映画だと、たとえば「バディ感」ということばで済ましていることがある。「友情を超えたもの」も「恋愛に近いもの」も「バディ感」と呼ぶが「それはごまかしだ」。この斬り込みかた! ふくざつな世のめんどくささをじぶんのものとして解決しようとするために春日太一の思考や文章は誠実になっていく。
誠実というのは「終わらないこと」かもしれない。春日太一はいま延延と恋バナをしていたいと言う。それを男性的な聞き手に「つまり」「ようするに」と結論づけられたくない。だらだらとどこまでも細部に淫するのが楽しいので、だから好きなんでしょとかはやく告白しろよというオチは要らない。「起承転結で言ったら承承承承承でいいんですよ!」