大漁、異漁。耀

タイトルは タトゥーのようなもの

鈴花(玉城ティナ)の説得力。被害性でなく、関係性。

『貞子vs伽椰子』観る。白石晃士の作家性が凄い。これを単に笑う、ツッコむひととは口をきかなくていいや。
笑い、ツッコむだけにひとと映画に行ったのだけれども。
その感想を浴びてあたまがうまくまわらなくなった。


呪いなどというものは、共同体のなかにしか効かない。だからそこからはぐれてしまうと何のことやらというハナシになる。
にんげんの狂気、凶行はそれよりも恐い。行動が共同体をつくってしまう。この映画の登場人物では夏美(佐津川愛美)に顕著だ。森繁教授(甲本雅裕)も周りを巻きこむ行動力をもっている。
そういう共同体が「在る」ことを信じさせる点においてこの映画は丁寧だとおもう。うわさとか、いじめとか。
そして共同体的呪いとは別種のオカルト性。呪いの過剰さから来る笑いと、オカルト由来の笑いはちがうものだけれども、貞子と伽椰子の対決をぎりぎりまでとっておくことで、オカルトが過剰になることは避けられている。たとえば俊雄(芝本麟太郎)で笑うことはあっても、伽椰子(遠藤留奈)で笑うばめんはないだろう。オカルトホラーとしてはみごとに面目を保っている。
経蔵(安藤政信)と玉緒(菊地麻衣)の霊能者コンビの乾いたコミカルさは好い。森繁教授の貞子への態度もオカシイが、経蔵・玉緒の貞子や被害者への態度もだいぶヘン。法柳 (堂免一るこ)の悪魔祓いはまともなぶんだけ観客から笑われていたが……。


これだけ世のなかが整備されると一寸スキマがなくなって、呪いの余地もなくなりそうだ。だから、救いが転落した恰好の西洋的オカルトのほうにひとはリアルをかんじるようになるのじゃないかとおもったけれど。どうだろう。共同幻想ではなくて、もっとカルトな。白石晃士がえがくようなとりのこされたばしょ、とりのこされたひとの物語へと世のなかが。