大漁、異漁。耀

タイトルは タトゥーのようなもの

「幽霊を演れ。幽霊と化けもんはちがうんや」

『吉祥寺寄席』に行く。「夏は怪談! 琵琶『耳なし芳一』と落語『皿屋敷』」
開口一番が春風亭一猿「道灌」。それから春風亭朝也「唖の釣」、錦琵琶の水藤桜子「耳なし芳一」。仲入あって桂春雨「皿屋敷」。


春風亭朝也、よくもわるくも春風亭一之輔柳家喬太郎の影響おおきく、聴きやすい。
立川流の「唖の釣」とくらべてポップ。ヤマシサをかんじさせない語り口。


水藤桜子の錦琵琶。
耳なし芳一」という話が好きで、それを実際に琵琶で語られる入れ子構造を目の当たりにして心臓を濯がれた気分。幼時に聞いたこの話、幽鬼との交流がエロティックだった。交わりを自身の力で押しとどめることはできない。だから和尚の経文で無理に引き剥がされるわけだ。その代償の耳。芳一は、幽鬼らをわすれぬのじゃないか。
水藤桜子への質問コーナーが好かった。琴や三味線でなく琵琶をえらんだのは艶物、世話物よりも時代物を語りたかったからというような衝動に根ざした話が聞けた。


桂春雨の「皿屋敷」、上方落語のハメ物つき。東京で聴く一般的な落語は噺のときに生の演奏、効果音が入ることはない。それが入るのがハメ物。地域寄席としてはなかなか贅沢な趣向。
ところが、流石芸能、落語家の桂春雨、マクラで入り時間の早さを愚痴ってみせた。これは巧い。
落語のなかで音がすること。それを知らない客にもあらかじめ伝えることができるわけだ。上方の播州皿屋敷と江戸の番町皿屋敷がちがうというのも、マクラで。
本編はじつに洒脱。東京の落語家による「皿屋敷」からはお菊さんに客が殺到してのちの商売っ気がなんとなく耳にのこるのだけれど、それをかんじさせない。桂春雨の落語の人物たちにあるのは茶目っ気。