大漁、異漁。耀

タイトルは タトゥーのようなもの

〈彼らは空間を、外観(みかけ)の変化にしたがって、美しい、または美しくない、と呼んだ。時間については異なり、/「時間とは生命の性質です」/と彼らは言った〉

霊界日記 (角川文庫ソフィア)
スウェーデンボルグの霊界日記―死後の世界の詳細報告書 セラフィタ バルザック全集 21 高橋和夫訳、エマヌエル・スウェーデンボルグ霊界日記 (角川文庫ソフィア)
、たま出版から刊行されたものが1998年に増補・改訂されて角川文庫に入る。
高橋和夫によりボルヘスのことばが紹介されている。日本の90年代。ポストモダン的な横断、寛容があったころの本だ。

スウェーデンボルグは、議論が誰をも説得しないこと、また真理はそれを聞く人びとによって受容されればそれで十分だということを信じていた。彼はいつも論争をさけた。彼の宗教著作のどこにも巧妙な議論はなく、ただ簡素で静謐な肯定だけがある。

    ホルヘ・ルイス・ボルヘス『見えざる存在者への証言』

スウェーデンボルグと他の神秘主義者とのあいだには本質的な相違がある。たとえば、サン・ファン・デ・ラ・クロスを取り上げてみると、彼は自分の体験したエクスタシーについて語る時、エロチックな経験を語るのと同じ用語、もしくはブドウ酒に関する比喩を用いているのである。また、ある男が神と出会うところを記しているが、その時の神は彼自身とそっくり同じなのである。ここには明らかに隠喩の体系がある。しかし、スウェーデンボルグの作品にはそのようなものはまったく存在しない。彼の作品は、見知らぬ土地を旅し、その様子を冷静な態度で綿密に描きだしていく旅行者の記録を思わせる。

    ホルヘ・ルイス・ボルヘスボルヘス、オラル』

いまさらながらボルヘスの作物論に感心する。
スウェーデンボルグも、極端におかしなことは書いていない。〈人間の記憶が、類似しているものに触発されて霊たちに表象されるとき、彼らは自分たちがその人間そのものだと考えるからである。そのさい、記憶から、彼らを表象するもののすべてが、また、単語、言葉、音声、動作などの多くのものが引き出される〉


〈霊たちもまた人間について、人間がどこにいるかはまったく知っていない。なぜなら、霊たちが人間の眼前に現れないのと同じように、形体的なものは霊たちの眼前に現れないからである〉
〈邪悪な霊たちも探究したが、彼らも挫折した。なぜなら、もし悪霊が人間の居所を知り、人間のもとにいるなら、人間を全面的に破滅させ、ゆくゆくは全人類を破滅させてしまうだろうからである〉


〈主から発出するあらゆるものはリアルであり、霊から発出するものは、リアルに見えるがリアルではないが、それは、幻想の中にいる人間が悪を善と考え、善を悪と考え、その他この種のいくつかのことを考えるのとまったく同じなのである。もし幻想がリアリティーとの類似性をもたないなら、彼らはまったく存在することさえできない。なぜなら、彼ら自身がたんなる幻想にすぎなくなるからである。このことは、自分たちは事実、死しかもっていないのに、自分たちは生命をもつと考える者たちの生命の場合も同じである〉

人間は成人期に達するまで、変化する状態の中に、したがって「霊たちの世界」にいるが、そののちその霊魂(アニマ anima)の方面では、天国か地獄のどれかにいる。なぜなら、そのとき人間の心は一定の状態になり、めったに変化しないからである。

許しの教理は完全な教理である。許しについて理解しない人、もしくは許しについて正しい結論を下さない人は、宇宙を治める神メシアの力に関して疑惑と否定に陥ってしまう。しかし以下のことが知られねばならない。すなわちそれは、許しなしには誰も矯正されえないだろうということである。なぜなら、真理や善が形を取るためには対立したものが招致されねばならないからである。真理や善の形はみずからの存在を……対立したものから引き出すのである。