大漁、異漁。耀

タイトルは タトゥーのようなもの

読むことのアニマ―子供部屋の世界文学 〈始まり(ビギニング)というものは、起源(オリジン)とは異なったものである。起源がつねに後から顧みられた眼差しのもとに成立する、正統的に必然的なものであるとすれば、始まりは逆に、いかなる根拠付けにも保証されず、なにかの偶然によってそこで始まってしまった事件を意味している。したがってしばしばそれは現在の姿とは似ても似つかない姿をしていたり、現在のあり方を批判し相対化する、秩序転覆的な力を秘めていたりもする。始まりを論じることは、したがって起源に遡行して安心立命を得るのとは正反対の行為、今日の自分のあり方がいかにも必然を欠いた、複数の力による偶然の決定にすぎないかを認識するための、スリリングな行為といってもいいだろう〉
四方田犬彦読むことのアニマ―子供部屋の世界文学』。

わたしが機会あるたびに帰依を語ってやまないフランスの批評家ガストン・バシュラールは『夢想の詩学』のなかで、読書には二通りの姿勢、すなわちアニムスとしての読書とアニマとしての読書が存在していると語っている。「アニムス」とは魂を示すラテン語の男性形であり、これに導かれて読むことは書物を男性的理論のもとに裁断し、分析し、批判することである。一方、魂の女性形である「アニマ」による読書とは、心のすべてをテクストに委ねつつ、書物の頁を捲っては物思いに耽けるといった緩慢なる作業に属している。

少年期の読書体験。〈トルストイ、ヴェルヌ、ホフマン、『ラーマーヤナ』で記したのと同じ順番のもとに同じ書物を読むことで、十五歳のまでの人生を、すなわち人生のもっとも降伏な時期をすごしてみたいという願望がある〉
多田智満子には『十五歳の桃源郷』という本がある。おもうに、散文的な少年の齢は「14歳」であり、詩的に見極めるためには「15歳」を俟つ必要があるのではないか。