大漁、異漁。耀

タイトルは タトゥーのようなもの

「明治以来、日本人はヒューマニズムにかぶれて、せめて隣人に接近しようとアクセクしているのだよ。しかしうまくいかないで、で、うまくいかないからこそ進歩しているのだよ」  三島由紀夫

発想の周辺―安部公房対談集 (1974年)
アポロの杯 (新潮文庫)
20代のノンケとテレビ番組『ビートたけしの私が嫉妬したスゴい人』観てた。美輪明宏が紹介しようとしている人気作家を「黒柳徹子だ」と言う。なるほど……。現代らしい正しい推察ではある。答えはもちろん「言うまでもなく」三島由紀夫だ。
亀梨和也が自転車メッセンジャーとして登場する映画『美しい星』も公開されるものの、遠くなりつつある巨星。
ノンケが本をいやがるから、蔵書を増やせなくなった。すこしずつ、減らすことさえして。
だからたまたま。神田神保町安部公房対談集『発想の周辺―安部公房対談集 (1974年)』を買って隠しもっているところだった。対談相手の一人である三島由紀夫が近かった。ノンケに内緒でゲイセックスに明け暮れてもいたし。


学生時代には三島由紀夫をよく読んだ。読書のきっかけが三島由紀夫だった。けれど、そこにあるのは言葉だけという気がしていつしか離れた。
改めて三島由紀夫の「声」に触れた。三島の同世代、安部公房との対談。そこにはおもっていたよりもずっとフィジカルで、フラットで、ポップで、ミーハーな三島由紀夫がいた。
さいしょの一言が「性の問題だね、結局、二十世紀の文学は」。

安部 それと、ことばの問題だろうな。ことばとイメージの関係……。
三島 それもきみ、無理にやはりこじつければ、性のほうに関係してくるのではないかな。
安部 それはそうだろう。
三島 つまり性の観念がね、ヴィクトリア朝のころは、非常に観念的なものだよな。ひたすら観念的に恐ろしがっていたものが、もっとニューッとした形で出てきたから、それを映像で処理すればたいへんなことになるし、ことばでどうやって追求するかということになれば、またこれもたいへんなことになる。

三島がゲイセックスにドハマリしたことをおもうと、観念的なことをきらったり、ここでの対談で「無意識」を、寺山修司との対談では「不随意筋」を否定したのも得心できる。あんたの小説めちゃめちゃ観念的だったじゃないかとかつてはツッコんだけども。

三島 フロイドと映画というものの二つが小説に与えた影響は、絶大なものだろう、フロイドと映画という問題は、フロイド自体も一種の機械論で、ああいう時代の、つまり半合理主義に便乗したような風潮で、実はガリガリの機械論であり……。
安部 合理主義だね。
三島 合理主義だと思うのだね。そして文学は自然主義文学なんかでも、遺伝の学説を引用したり、いろいろやってきたんだけれども、ああこれだというので、フロイドをつかまえていちおう安心した。

「ところが、二十世紀文学というのは、すべてフロイドを通しているけれども、フロイドがどうにもならなかったあとの問題に、全部ぶっつかっているというふうに感ずるので、それはたとえばフロイドの弟子たちを見ていると、アメリカの新フロイド学派は、エーリッヒ・フロムなんかその一つだけれども、性を社会的な拡がりのなかで……性といよりも、精神分析を社会的な拡がりのなかでとらえるほうに、どんどん進んでいって、片っ方ではユンクみたいに、ミソロジカルな、集合的無意識のほうへ進んでいくような形で、いずれにしろ文学や民俗学社会学へ、フロイティズムが分岐してゆく」(三島)
おもしろいなあ! あたまいい。わかってる。

三島 フロイドの通俗化は、アメリカなんかでは、たいへんな通俗現象になっていて、一般社会が二十世紀になって人間が個性を失い、それから大きな機構のなかで、一つのファンクションになってしまう場合には、なんに脱出口を求めようとするかというと、まずセックスに求めようとする。そのセックスで社会から脱出しようとすると、行手に精神分析が立ちふさがっていて、お前はちゃんとした性的に正常な人間に戻れ、そうしてお前は社会的に適応のある、完全な成長をした性的なイメージをもちたまえというふうに強制してくる。そうすると、逆に、そういう分析でもなんでも、つまり人間の自由をしばるコンフォミティーのほうに味方しているような形のたどり方をしていくのだね。そういう形になるから、文学はそういうものに、どうしても反抗せざるをえないようになってくる。


「映像の面からの、コンフォミティーの圧力、それから性の面からのコンフォミティーの圧力、両方に対抗しなければならない。そうすると、二十世紀初頭に、あたかもわれわれの武器であったかのような、二つのものが敵側に回っちゃった。それが僕の言いたいことなんだよ。人間を全行動的につかまえるということは、むしろ文学の古典的課題であって、それが復活するということが、あるいは性が復活するということになるかも知れないのだね」(三島)


こちとら感心馬鹿なので引用していたらキリもないが、ジェイムズ・ジョイスアンドレ・マルロー、ヘンリー・ミラーノーマン・メイラー、イヨネスコやベケットへの言及もおもしろい。
トーマス・マンマルセル・プルーストにある《残酷さ》を二十世紀文学の特徴の一つともしている。「たとえばフローベルがどんなにボヴァリー夫人をいじめつけても、そんなに残酷じゃないよ」
応えて安部公房は「他者に対する恐怖なんだな」。

安部 たとえば、よく組織と人間を対立物として考える考え方があるね。しかし僕は、組織がこの世からなくなるということは、ぜんぜん思わない。そうすると、永久に人間は組織と対立していく。人間は不幸なもので、未来は灰色に描かれる、というようなのは、これは非常に滑稽だと思う。