大漁、異漁。耀

タイトルは タトゥーのようなもの

〈最後に自滅してしまうと、書いていく意味がないわけで、自滅ではなく、解体でしょう。自己が解体するのです。自分というものを、いったん、白紙に戻してしまうのです。これもアメリカによくあるテーマですね。現実にも、頻繁にあることです。このシステムはうまく機能しないようだ、とわかったら、すぐにそのシステムのぜんたいを白紙に戻して、別のシステムでやりなおしていくというアメリカ式のやりかたが、こんなところでもテーマになったりするのです〉

個人的な雑誌 1
片岡義男個人的な雑誌 1』。個人的な、というのは「片岡義男による雑誌的なもの」の意でもあるし、個人的なチョイスということでもあろう。もしかすると読者とは距離があるかもしれないもの。
話は、植草甚一の思い出から。
「はじめて接する本の品定めをするにあたっての、すでに確立された手順が、植草さんにははっきりとあって、どの一冊も、その手順に従って、一冊が一分くらいの速度で評定されてしまうのです。アメリカのハード・カヴァーを十冊というとかなりの量ですが、そして重いのですが、植草さんの手にかかると、あっという間です」
「あれほどわくわくして待ってくれるのであれば、もっと頻繁にぼくは本を届けるべきだった、とも思います」
そして、いまならばアメリカのどんな小説をえらんだらよいのかと、初出時の1987年に片岡義男はかんがえる。さらにアメリカとは、フェミニズムとは、レズビアニズムとはというところまで。
分析によって生まれた課題が、日本ではまだ解決されていない。それも読みどころだ。

男が必要ではなくなる、という世界は、やはり、理想の世界のひとつですからね。フェミニズムにしろなににしろ、人を開放するするための運動は、最後のすこし手前で、男を必要としない段階に到達するのです。男のロマンが、いかに遅れた、時代錯誤のきわみであるか、これでよくわかると、ぼくは思うのです。

独立した女性個人どうしの恋愛関係、つまりレズビアンカップルは、一対一の恋愛的な結婚的な関係の、きわめて純度高く理想化されたものです。だから、理論的には、そのような関係のなかでは、当事者ふたりは、四六時中、うっとりと夢を見ているような、陶酔のきわみのなかを、ふたりして漂い続けることが出来るのです。

これが巻頭の「長いインタヴュー 『語ることについてのエッセイ』1」。
「五十年まえの『名画』を二本、観た。そしてぼくは、昔の二枚目男優たちの限界を知った」でも《女性に対する態度》を問題としている。


アルフレッド・ヒッチコック監督による『断崖』と、ロバート・テイラーヴィヴィアン・リーの共演する『哀愁』──「両方とも、女性を馬鹿扱いにして成立している話、ないしは映画です」。
「女性が馬鹿だったり、あるいは、馬鹿なものとして扱われていたら、面白いストーリーやドラマは、絶対に出来ないです。日本映画が、そうでしょう」


「彼の後輪が滑った」という、オートバイをめぐる14のショートショートにもおどろいた。オートバイで視る景色に、俳句をむすびつけていくのだから。

日本のなかをオートバイで走るのだから、走りぬけていくという行為によって体感する光景は、当然、日本のものだ。そして、日本の光景は、オートバイという機械やその機械が持つスピードなどによって、体感する当事者であるぼくの内部で、見ていくそのかたっぱしから、濃縮され抽象されていく。濃縮や抽象がひとつの頂点に達すると、そこには俳句がひとつ残る、と言うと出来すぎになるかもしれないけれど、俳句のきっかけとなる光景の濃縮されたものは、オートバイによっていくつでも拾い集めることが可能だ。