谷川俊太郎の詩集『夜のミッキー・マウス (新潮文庫)』。2003年の詩。そこから4年前、8年前の詩。谷川俊太郎は1931年生まれ。
それにしては攻撃的だとおもう。詩人というのはそういうものなのかもしれない。
そのなかで、どちらかといえば穏便な箇所が沁みた。
文字はときに声よりも騒々しいと男は思う
声の闇から生まれてきたからか文字は光を渇望している
「詩に吠えかかるプルートー」
いつだったかピーターパンに会ったとき言われた
きみおちんちんないんだって?
「百三歳になったアトム」
『鉄腕アトム』の作詞をしている谷川俊太郎だ。赤の他人によるパロディとは一寸ちがう。
「ああ」「ママ」「なんでもおまんこ」の三篇は、アンソロジー『エロティックス (新潮文庫)』にも収められている。「ああ」はおんなの子目線の、「なんでもおまんこ」はおとこの子目線のリビドー。子と母の「ママ」が対話しつつ残酷で凄い。
〈ママが死なないようにぼく毎晩お祈りしてるよって言われると
私嬉しくて死にたくなる
でもママいつかは死ぬよね
ぼくママが死んでも生きていけるようにしなくちゃ
私は子どもの顔を自分の裸の胸にぎゅっと押しつける
そんなこと言わないで
ぼくママが死んでも生きていけるよ
だってそのときにはもうコイビトいるもん
そんなこと言わないで
新しいおっぱいだよでかいおっぱいだよ
そんなこと言わないで〉
「スイッチが入らない知識人」、「愛をおろそかにしてきた会計士」の二篇はほかの辛辣で野蛮な詩とともにならんでいるため輝くが、ほかの詩にある愛だって男女間の分かりあえなさだったりする。
「よげん」はちからづよい。年をとると「よげん」なんてできなくなるものだ。権力をもつにんげんがおそろしくなるし、なにももたない若者がかわいそうになるから、「よげん」のようなことばの振り回しかたができなくなる。
だから、そうか、いいのかとずいぶんはげみになった。
立ち止まって爺さんは嗅ぐ
犬みたいに秋の大気のかぐわしさを
そこに隠された情報量に圧倒もされずに
「鍵を探す爺さん」
広い広い野原だ
よちよち歩いているうちにおとなになった
オンナの名を呼びオンナに名を呼ばれた
いつか野原は尽きると思っていた
その向こうに何かがあると信じていた
そのうちいつの間にか老人になった
耳は聞きたいものだけを聞いている
遠くの雑木林の中にはどっしりした石造りの家
そこにいるひとはもうミイラ……でも美しい
広い広い野原だ
夜になれば空いっぱいに星がまたたく
まだ死なないのかと思いながら歩いている
「広い野原」