大漁、異漁。耀

タイトルは タトゥーのようなもの

「わたしの名前は『病気』です」

リオフェス2019・吉野翼企画『疫病流行記』(北千住BUoY)を観る。

寺山修司、岸田理生の共作である『疫病流行記』。《見世物の復権》という言葉に倣えば、ここでは《疫病》の復権が目論まれた。流行りの病いを隠喩として呼びこむのでなく記憶、潜んで在るものを挑発する。

陸軍野戦病院。トレンチコートの刑事。船。南方へのあこがれ。羅針盤潔癖症。官能。祝祭と犬。

生活感情に根ざした小話の断片と、《疫病》の起源。寺山修司の演劇は、サスペンスと解体にあるだろう。

終盤ちかくに《疫病》及び《俳優》や《台詞》についての謎ときがはじまる。このとき登場人物たちはメイクを落としはじめ、私服にもどっていくのだけれど、これが先日観た『化粧二題』(井上ひさし脚本)と響き合って滅法おもしろかった。

『化粧』の舞台は大衆演劇の楽屋である。その楽屋で目を覚まし、鏡のまえという体で、じぶんの顔を見ることなくメイクを仕上げていくという演劇的な(観ることの)スリルがあって、その逆もまたドキリとするものだ。井上ひさしはそれを物語に乗せるが、寺山修司は蕩尽のためにスリルを用いる。物語から物語性をうばうのである。方法はちがうがどちらの芝居にも《自己発見》なるカタルシスがある。

 

演劇や、情報や、生活のもつ伝染性を肯定的にえがく。秘匿することに意味はないのだから。