大漁、異漁。耀

タイトルは タトゥーのようなもの

「人間、どこかで寂しさを持っていないと人間になれないでしょ」  鬼海弘雄

ことばを写す 鬼海弘雄対話集

平凡社。写真家・鬼海弘雄の対話集。となりに山岡淳一郎。

「はじめに」で鬼海は〈自分の歩幅を守り続けるのは、簡単なようで難しい。どのようにして歩幅を保ってきたかは、それぞれの対話に語られている。キーワードの一つは「旅」だ〉と記す。ゆるやかながら、きりりとした姿勢。

堀江(敏幸) いまは簡単に発信できますから、体験を寝かせずにすぐ外に出すことができる。それで終わってしまう人もいます。

鬼海 表現の回路が細いでしょ。いきなり高速道路を100キロで飛ばして目的地に着こうとする。でも、写真という表現は、もっと濁ったなかをのたのたと走るものでね。

「情報」と「表現」のちがいがはっきりしている。

「フィクションって時代や世代をまたぐって要素が必要です。現在にばかり執着すると、前にも後ろにもいかない」と鬼海。

平田俊子との対話では、

平田 よく鬼海さんは写真は何も写らないっておっしゃいますよね。

鬼海 思う心がないとダメなんですよ。表現って、情報を超えて、ポッと世界を丸くしたいという願望がないとね。

平田 写らないとすれば何を撮ろうとしているんですか。何を願って撮っているんだろう。

鬼海 写真を見て、少し人間を好きになって、少しだけ未来が見えるといいだろうと単純に思ってます。

と、表現というものがもつ未来について。

ひとの傷や寂しさを捉えつつ、未来や仕合わせを信じる。

鬼海 圧倒的に肯定から始まっていかないと否定を入り込ませられない。それはフェリーニチェーホフから学びました。

鬼海のことばは「肯定」とか「退屈」とか、実働の場で根を下ろしたところから来る。夢のようなものではない。

そのまえに、きっと好奇心がある。おなじ味をもとめて旅にでることもあれば、なにかに飽いての旅もあろう。

池澤夏樹はむかしもいまもわくわくしている。「ほかの土地にはほかのものがあるらしいというだけで行ってみたくなる」。作家的想像力かもしれない。鬼海と対話する堀江敏幸は「フランスの小説を読んでいて、たとえば光の加減が気になって仕方なかったんです。夏は日が長いので、どんな感じなのかとか。それと土地の高低差ですね」。

堀江 ある場所からある場所に移動するとき、主人公がどんなふうに歩いているのか。フランスの詩を翻訳するときにも気になった。下るのか、上るのか、平面的な地図じゃわかりません。地図では距離が離れているのに短時間でどうして移動できるんだろうとかね。交通機関もわからない。行ってみて、バイクで移動したんだろうと気づいたりしました。

写真家と対比するかたちで小説家を置くこともできそうだけれど、どちらにも肉体労働的な単純さを見いだし得る。堀江敏幸が言う。「ものを書いているときって、牛みたいに迷っているんですよ」

この牛は、鬼海がアナトリアで見た牛の話。〈村の入り口に二股の道がありましてね。そこで若い牛が1頭、迷っていたんですよ。どっちに行くか〉──そのすがたは〈家畜じゃないでしょ。人と変わりません〉。

書くときに迷うように、読みの場でも迷ってみる。ゼミで堀江は、本をゆっくり読むことをおしえている。「小説に出てくる建物の周りが石畳なのか、ぬかるみなのか、土なのか。登場人物は靴を履いているのか、いないのか、足音はコツコツか、ぴちゃぴちゃか、そういうことを考えながら読んでいるんです」

「授業が始まって3回で、文庫本の3、4ページしか進んでいません」

 

対話のあいては山田太一荒木経惟平田俊子道尾秀介田口ランディ青木茂堀江敏幸池澤夏樹

田口  単純労働をくり返している人って、なぜかカッコいいんですよ。

鬼海 それは、たぶん自分は特別な人間じゃないって思っているからだよね。