大漁、異漁。耀

タイトルは タトゥーのようなもの

伸縮自在の人食い虎

高丘親王航海記 (文春文庫)

先行くものを想うから、虚構は生まれる。オマージュと奇想。

ITOプロジェクトによる「糸あやつり人形芝居『高丘親王航海記』」を観た。原作は澁澤龍彦の小説。脚本・演出、天野天街

おかしな話である。澁澤龍彦がおかしいのか、天野天街がおかしいのか、人形劇団ココンや糸あやつり人形劇団みのむしがおかしいのかとにかく稚気に満ちていた。そしてところどころ、凶凶しかった。

 

開場してさいしょに見るのは舞台に横たわる人形。糸あやつりなのに糸が張られていない。ハナからカマしてくる。ここのひとたちは様式や物語を何度でも転倒させてくる。それを観たくて、化かされたくてここに来たので、ああもう劇のあいだずっと、おどろいたり笑っていればいいのだとはやくも胸はいっぱいだ。冒頭は、原作のようでない。折口信夫死者の書』だろう。

そんなことに震えていると、20世紀フォックスの如き21世紀ユニバーチャルのオープニングロゴが映しだされ、その数字がぐんぐんと減り。9のところでやっと止まって《9th》──高丘親王の時代となる。高丘親王の芯にあるのは、幼時に薬子から教わった天竺というところ。

天竺では、なにもかもがわたしたちの世界とは反対なの。わたしたちの昼は天竺の夜。わたしたちの夏は天竺の冬。わたしたちの上は天竺の下。わたしたちの男は天竺の女。天竺の河は水源に向ってながれ、天竺の山は大きな穴みたいにへこんでいるの。まあ、どうでしょう、みこ、そんなおかしな世界が御想像になれまして。

物語には、おおきな鳥がでてくる。そしてピンク色のジュゴン。マントを羽織ったオオアリクイ

 

ジュゴンは、にんげんのことばを覚えて旅に加わる。陸地にまでついてくる。そしてしぬ。

死ぬ前に秋丸に向って、はっきり人間のことばでこういった。

「とても楽しかった。でも、ようやくそれがいえたのは死ぬときだった。おれはことばといっしょに死ぬよ。たとえいのち尽きるとも、儒艮(ジュゴン)の魂気がこのまま絶えるということはない。いずれ近き将来、南の海でふたたびお目にかかろう。」

にんげんとオオアリクイのやりとりも凄い。高丘親王の連れが「わたしもあえてアナクロニズムの非を犯す覚悟で申しあげますが、そもそも大蟻食いという生きものは、いまから約六百年後、コロンブスの船が行きついた新大陸とやらで初めて発見されるべき生きものです。そんな生きものが、どうして現在ここにいるのですか」と言えば、オオアリクイは「おれたち一類の存在がコロンブスごときものの発見に左右されるとは、とんでもない言いがかりだ」と返す。

「おれたちは新大陸の大蟻食いにとってのアンチポデスなのだ」

「アンチポデスといったな。そのアンチポデスを見んがために、わたしははるばる天竺への渡航をくわだてたといっても過言ではなかろう」

 

犬人(いぬじん)、蜜人(みつじん)といったグロテスクなエロが舞台を覆うこともある。場面が変わるたびにおどろく。ここら辺りがこのひとたちの表現のヤマかな、と観ていてもそのヤマをつぎつぎ越えていくのだから。迦陵頻伽の登場で終幕。カーテンコールに現れた糸あやつりのひとたちの平均年齢は高かった。

ITOプロジェクト✕天野天街のDVD『平太郎化物日記』を買って帰った。