大駱駝艦 天賦典式『のたれ○』観る。
集団で踊る。ソロとちがったユーモアが生まれる。『のたれ○』は種田山頭火の生涯を追った。
開演時間になると、客席通路に行乞の山頭火が現れた。それも五人。経を唱え、観客に銭をねだる。あちらこちらで。山頭火の厚かましさ、不気味さ、可笑しさを間近に見る。舞台がはじまる。かれ(ら)の幼少期、母の死。
死の瞬間をストップモーションにすることで、家族の悲喜こもごもが誇張される。ここも笑えるばめんだ。
山頭火は、傷を抱えて生きた。忘却したり無反省になったりできなかった。その態度が、喜劇的なのである。種田山頭火のマゾヒスティックな甘えは、突き放されているようにみえた。舞台で逆さに吊られもする。それを、山頭火の心身に巣食う歌詠みたちに小突かれる。
舞台に登場する歌詠みたちは菅原道真、西行、源実朝、松尾芭蕉。
東風吹かば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ
出でいなば主なき宿となりぬとも軒端の梅よ春を忘るな
和歌や俳句の引用もあって、舞踏としては台詞が多かったかもしれない。ばめんも素直だった。売春宿や、亡き母と弟や、(現代の?)働く女性たちなど。
山頭火が知っている戦争は日中戦争だった。それは新聞記事、出征、経済状況によってわかることだから、きな臭い寂しさが募るのみだ。さいごのばめんに降るものは塵埃か、雪か、日記の灰か。
それを拾いあげると、自由律の俳句である。舞踏家たちが声にする。演出は、直球だった。『のたれ○』の「○」は珠でもあったようなのだ。