大漁、異漁。耀

タイトルは タトゥーのようなもの

〈そして、兵営の外の世界のやりきれない暗さが、僕の皮膚をふたたび染めはじめているのに気付くのだ〉  吉行淳之介「藺草の匂い」

焔の中 (P+D BOOKS)

短篇集。吉行淳之介『焔の中』。えがかれているのは昭和十九年、二十年。敗戦まぢかの日本だ。

「僕」を形成しているのは虚弱な身体と、あこがれ。逞しい男性像へのそれはない。十全ではない身体が欲するのは、女体だ。

まさに吉行淳之介のテーマだけれども、青年期の入口に立つ「僕」は「童貞」で、まだまだ初心(うぶ)。

手札のすくなさと、虚勢と、観察者ふうな醒めた眼が、おもしろい。その眼で戦争を見てもいる。

飲酒退校、喫煙停学、という校則がことごとしく設けられていたし、一挙手一投足が監視され口喧(やかま)しく指図されていた。そうなると、一つ一つ僕たちは相手が嵌め込もうとする枠からはみ出した行動をしたくなってしまう。そして、その結果として不愉快な苛立たしい気分に陥ることになるのだ。そういう気持を、毎日繰返しているのが、僕たちの仲間の学生生活だった。

ゾルという言葉は、ドイツ語のゾルダーテンからきたもので、軍人嫌いの学生たちが侮蔑の気持を籠めて発音したものだ。この言葉を聞くと、急に僕の気持は弛んでしまった。相手を警戒する気持がすっかり消えたわけではないのだが、兵舎の中で軍人の悪口を喋るという状況の面白さが、僕の心を捉えてしまった。それは、ダンディズムに最も近いものであったろう。

 

「ひそかに期待するというところが、つまり思春期の証拠なんだよ」

僕は老人の口まねをして、笑った。

 

〈青春というやつは、どうしてこう、べたべたしてるんだろうな〉と「僕」は言う。それはやすやすと女体男体の体液に結びついていく。「僕」が青春に抗うようなのは、好い。恋愛もしたくないと言う。しかしセックスはしたい。

〈肥った女は、白い肌理のこまかい皮膚が張り切っていたが、僕の眼にはその下に詰っているものが人間の肉ではなくてカマボコかなにかのように思えてしまうのだ〉

女性への嫌悪と自己に対する嫌悪が手をつないでいる。「藺草(いぐさ)の匂い」「湖への旅」の二篇はその辺りの甘さもあるが、表題作「焔の中」は小説としての出来が良い。

〈太平洋戦争の末期、昭和二十年晩春のことである。そのころ、僕は「いま何をもっとも欲するか」と、自分の心に問うてみることがあった。そこにはいろいろの答えが並んでいるのだが、反射的にうかび上ってくるのは「夜、ふとんに入って、眼が覚めたら、朝だった、という気分を味わってみたい」という答えであった〉

空襲のために眠りがたびたび中断される。なるほどそんな時代だったかとおもう。

美容師の母、それと若い女中との暮らし。おなじような時代を扱うのでも、安岡章太郎阿部昭とはちがい、父権を欠いた生活だ。

僕は洗面所へ行って口をすすぎ、壁にかかっている鏡にむかって歯を剝きだしてみた。鏡には、異様なまでに蝕まれた歯列(はなみ)が映っていた。老人の歯である。僕は口を閉じてみる。歯は血の色の濃い若い唇のうしろに隠れて、鏡には少年と青年の境目にある男の顔が映っていた。

 

「廃墟と風」では外界も荒廃している。〈樹木は枝が焼け落ちて、一本の焦茶色の棒になっていた〉

女性の同性愛心中とか、女友達とか、飲み屋の女将。異性が素描されていく。

 

「華麗な夕暮」は終戦後を書く。

〈戦争が終る気配が濃くなっているときに、死んでしまうのはいかにもモッタイ無いではないか。そして、死から免れるためには、東京から離れさえすればよいのである〉

〈僕に必要だったのは、女の心ではなく女体だった〉

解放感のうちで、最も大きなものは、やはり死から解放された気持だった。 死ぬことについて諦めと覚悟はついているつもりだったが、二十歳の肉体の中では十分に死を飼い馴らすことが出来ていなかったことを、僕はそのとき知った。