大漁、異漁。耀

タイトルは タトゥーのようなもの

「この自然界には、原因のない作用はありませんから」

配信サーフィン。鈴本演芸場の昼席をすこし観て、それから浅草九劇オンライン、柄本明の『煙草の害について』。

移動に時間をつかうことなく、つくられたものを渉猟できる。本や映画ではない。舞台でそれができるようになってしまった。

 

落語は、かなり厳選して聴いてきた。寄席に通う時間はなかった。だから未知の落語家ばかり。

柳家吉緑はマクラでロボット掃除機ルンバの類似品・サンバの話。「ただ闇雲に徘徊することしかできない」、「馬鹿な子ほどかわいい」。このハナシからドジな泥棒の登場する「鈴ヶ森」は佳い流れだった。口吻は師匠の柳家花緑そのままだったけど。

つづいて鏡味仙三郎社中「太神楽」、台所おさん「狸鯉」、林家しん平「漫談 焼肉屋」、ロケット団「漫才」まで。

 

そして柄本明『煙草の害について』。何度も上演されてきた。十何年も前に「Weeklyぴあ」に公演情報が載っていて、入手困難だったのかどうか、とにかく「なんとしてでもチケットを取る!」というような年頃ではなかった。それがオンライン視聴というかたちで、すんなり購入できたのだ。

テレビで観劇することに抵抗があるタイプではない。どんな媒体でも没入できる。だから素直にありがたい。

柄本明のメイクは、むかし目に焼きつけたシックなものとはちがった。じつに喜劇的で、志村けんをつよく想起させるものだった。ああこれが古典の再演だなとおもう。折々の残響がある。

科白も「いざ鎌倉へ」とか「浅草」とか「中洲」とか「有馬」とか。俳味もつよくなったろう。チェーホフ原作だが自在な翻案。演者は日本語を用いる。その原稿を読みあげるなかで「例えば」を「イタリえば」と言ってしまうなど。

独白というかたちの脱線、終幕へ近づくにつれておおきくなっていく狂気を有する一人芝居だが、柄本明演じる男はあんがいと冷静である。悲哀や混迷ばかりではない。

妻に怯えつつ講演を終え、はける男の捨て台詞に生きていくことのしたたかさを見た。演劇のテンポ、カタルシスをひさびさに堪能した。