大漁、異漁。耀

タイトルは タトゥーのようなもの

〈ロンドンの緯度は樺太に近いのに、花は早い〉

骸骨巡礼 :イタリア・ポルトガル・フランス編 (新潮文庫)

養老孟司『骸骨巡礼─イタリア・ポルトガル・フランス編─』。〈今度は南欧である。どうしてこんなこと、始めちゃったのかなあ。自分でもよくわからない。人生と同じで、旅はひたすら続く〉

仕事をまとめにいくよりも、継続的ななにかをもっていただくほうが、読者としてはありがたい。そこに往時のキリキリした才をそれほどもとめたりはしない。

自分の扱っている主題について、過去の学者たちがなにをいってきたか、短く要約して繰り返す。これが論文の「序」に相当する。そこに自分の「新しい」所見を付け加えて、論文が完成する。そこで学問が少し「進歩した」ことになる。

〈進化も発生も、生きものの時間的な変遷を対象とする。両者の関連について、ヘッケルの生物発生基本原則というのがある。短くは「個体発生は系統発生を繰り返す」、もう少し丁寧にいうと「個体発生は系統発生を短く要約して繰り返す」〉

さいしょでさいごの真新しさを発揮するような天才の存在を、養老孟司がみとめないのは当然だろう。

〈十九世紀の欧州は天才を好んだ。文化芸術は天才によって拓かれ、進歩する。人々はそう信じていたらしい。それがノーベル賞になったのである〉

 

西欧の死者はドラキュラになる。いわば完全に独立した人格というしかない。こちらの都合に構わず、勝手に動く。だから敵対する場合には、退治するしかない。そこでは西欧社会の人間関係の常識がそのまま生きている。そのように感じられる。相手と自分の間に切れ目があって、それを常に意識している。だから死んだ相手が自ら語るという表現になる。

自己と他者の間に、切れ目をどう入れるか、それが生者と死者の関係を根っこで規定している。その切れ目を入れるのは、もともと言葉の作業である。言葉はモノを切るからである。

ハプスブルク帝国は潰れたが、じつはその崩壊の過程でヒットラーという「怪物」を生み出す〉

 

〈聴覚は音楽に示されるように情動的で、それをはっきり述べたのがトルストイの『クロイツェル・ソナタ』である。ベートーヴェンのあの曲は情動を刺激し、聴く人を駆り立てる。でもどこにどう行けばいいのか、それが指示されていない。情念を駆り立てるだけというのは、人を不道徳な行為に導く。トルストイはそういう。

この二つの区分は、いまではそう簡単ではないと思っている。視覚にもじつは二つの面がある。一つはふつうの視覚だが、第三の目があって、これは日周活動や性成熟に関係する。魚から鳥類までは第三の目はちゃんと機能している(……)外的と内的という、この二つの機能が分かれるのは、おそらく五感全体に成り立つことらしい〉

 

〈宇宙船は人工物だが、そこから見える世界は自然物である。それを見たとたんに、思想が根底から変わってしまう。見ただけでも自分が変わるのだから、見ることを馬鹿にできない。見ることなんて、ひたすら受け身だ、ということにはならないのである。でもテレビの画面を見ていたのでは、意識の中から出られない。テレビはだれかの意識が作っているからである〉

 

「個」のつよさ。それが西洋と東洋のちがいというふうにこれまで説明されてきたが、〈現在の日本社会では、実情としての個が実在し始めている可能性がある。たとえば横浜市では、単身世帯が四割を占めるという。単身を世帯と呼ぶべきかどうか、それがまず問題だが、ともかく人生の独り者が増えている。そういう社会が以前とは相当に異質の社会だということを、ボチボチ考慮しなければいけないのではなかろうか〉

こうした社会では、じつは生死の意味が異なってくる。そこが社会全体に対して、ボディー・ブローのように効いてくる、といってもいい。共同体では、生死は共同体とともにある。特攻の場合ならお国のためはタテマエで、本音は身近な人たちのためだった。いまではそれを持たない人たちが増えた。(……)生死は「自分のもの」という暗黙の了解が生じて当然であろう。具体的にはそうとしか、考えようがないからである。ところが「自分のもの」という人生は、年老いてみればわかるが、貧しいものである。