大漁、異漁。耀

タイトルは タトゥーのようなもの

横内謙介と、スーパー歌舞伎

夢みるちから―スーパー歌舞伎という未来

2001年の書籍『夢みるちから スーパー歌舞伎という未来』。三代目市川猿之助横内謙介(劇団扉座)による対談と、戯曲『新・三国志』が収められている。

つぎの作品『新・三国志Ⅱ─孔明編─』を控えての出版だった。

 

20年まえの本である。三代目市川猿之助は一線を退いて二代目市川猿翁となったし、スーパー歌舞伎スーパー歌舞伎Ⅱ(セカンド)と名を改めた。

 

三代目市川猿之助の理念、それに励まされ、しかも押し潰されそうになる横内謙介の格闘が目に快い。

猿之助「僕は、梅原猛先生みたいに骨がすごく太い先生と、横内さんみたいに台詞が素晴らしい先生と、両タイプの先生と付き合っているから面白いですよ。横内さんは、骨に関しては梅原先生ほど太くないわけですよ。迷いがあったりするからね」

猿之助 人間には仏性と悪魔性の両面があり、そのバランスがそれぞれに違っている。人間解釈の幅というのは、それがどう現れるかという考察の問題でもある。作家は、その人の人間性にどれだけ幅があるかが試されてしまうわけです。

横内 今、多くの作家は天国よりもむしろ地獄の世界を書きたがっているように僕は思います。安直に希望を語れない難しい時代なので当然ですが、けれど、それを描ききるには、片一方ではやはり崇高なものも理解していなくてはならないんですよね。おっしゃる通り、幅が必要です。

横内は続ける。「でも僕自身、幅が足りない。だから張飛のような突飛なというか、スケールの大きな人間を書くときに、ついつい小さくしてしまう。そんなに単純な人間なんかいないと、つい思ってしまう。けれども、芝居にそれだけ無垢な人間が一人いるからこそ、地獄が書けるというところがあるわけです」

単純さ同様、成長や変化も煮詰めておく必要がある。「七十パーセント変わりました、八十パーセント変わりましたというのは、どうも歌舞伎的ではないようですね」

 

「善と悪という明確な対立に現代において拮抗し得るのは、理想と現実の対立だということ。最初の台本を何度も直し、ずっと突き詰めていった結果、最後に残ったのがそこだった」(横内)

スーパー歌舞伎が追いもとめる、崇高な《神話性》。

猿之助 「夢見る力」というのは、ゴールに入るということではなく、永遠にゴールに向かって努力し続ける力のことです。ゴールなんて、当然あるわけはない。また、ゴールを決めるとゴールに入ったとたんに努力を終えてしまう。ですが、ゴールというのを永遠に求め続けていくと、高みに上れる。そういうことが「夢見る力」だと思うんです。そのゴールに入るまでの努力のなかで、我々はこうやってうごめいているわけです。

「『夢見る力』というのは、諦めずに滅びるということ」、「何度もいうけれど、猿之助の精神は江戸歌舞伎の精神です。新しいものではないんです」(猿之助)──果てしのない話であり、芯に壮大なものがある。

それは台詞や装置といったかぎられた記号の話でなく、心だから、猿之助は惑いもみせずにジャンルを横断できるが、横内謙介はコンピュータや映画に脅威をかんじている。それで殊更にナマの舞台の優位を語ってみたりもするのだけど、猿之助はつよい。

「映像にあるものはすでに芝居にある」(猿之助

 

三代目市川猿之助は、京都造形芸術大学で歌舞伎を教えた。俳優志望ではない子らへの実技もあった。

猿之助 人間というのは、身体は頭で考えた通りに自由に動くと思うじゃないですか。あそこへいきたい、ここへいきたいと、身体を自由に動かせると思っているけれども、一つ枠をはめられることで、いかに自分の意思通りに身体が動かないかということを実技のなかで生徒は悟る。それによって、それぞれの人生や芸術に対して、いろいろな考えも芽生えてきたんです。

政治経済は人が作り、文化芸術は人を作る。

文化芸術の究極の目的は、あらゆる意味で人に感動を与えること。それによって感動すれば、人々に人間の最高の英知でもある「考える力」を喚起させる。

(……)私たちにできることは歌舞伎ですから。感動するまでそれを徹底的にやろうというわけです。

「たとえば『猿之助さんの汗を見て、明日から私も一生懸命やらなければいけないと思いました』なんてお便りをいただくと、嬉しいんですよ。私の汗を見て感動してくれて、考えてくれた。こうなると、ああ私もがんばろうと、こちらも活力をいただくわけですね」