大漁、異漁。耀

タイトルは タトゥーのようなもの

言葉遊びする生きものたちの可愛さ

不思議の国のアリス (新潮文庫)

矢川澄子訳、金子國義絵。ルイス・キャロル不思議の国のアリス』。

 

さいしょに夢中になったのは河出文庫高橋康也高橋迪訳)で。ジョン・テニエルによる挿画、人間が皆グロテスクに描かれていたのも好かった。

そこからさまざまな版や研究本へと手が伸びた。それらは二次創作といっていいのだろう。魅力の大半は人語をあやつる動物と、その内容の奇天烈さにあったとおもう。

 

アリスに際立った特徴はなくて、矢川澄子による「兎穴と少女」(あとがきのようなものだ)から引けば〈良識のかたまりみたいな少女〉である。それが異界で飲み食いすることによって〈いままで観客もしくは通行人として、受身に味わってきたにすぎないこのワンダーランドのwonder を、アリスはここではじめてわが身の内にもとりいれた〉。

いわばこの国のものとはっきり血をまじえたのであって、よそ者でなくなるための、これも通過儀礼のだいじな一場面とみてよいでしょう。

 

(……)

 

結論からいってしまいましょう。《兎穴》といい、《通過儀礼》というとき、筆者の心にあるものは終始、《少女の孤独》ということなのです。

にぎやかな世界のなかで読者や観客に愛玩されるアリスというのは、矢川澄子の感覚とちがいそうだ。

矢川澄子の訳は、おはなしを聞かせる調子。

〈ドアをあけると、あちら側はせいぜいネズミ穴ほどのせまい通路になっていてね。ひざまずいてぐっとのぞきこんでみると、そのさきは、見たこともないすてきなお庭なんだ〉

読みはじめは、語尾の「ね。」が少々気に掛かる。それが終盤、グリフォンとウミガメモドキの辺りから「〜のさ。」「〜よ。」と変化に富んでくる印象。リズムも良くなる。あるいはこちらが勢いづいてきたのだろうか。

アリスの孤独と比べると、登場人物たちはあまりにバディだ。グリフォンとウミガメモドキ。公爵夫人と料理女。ウカレウサギと帽子屋。女王さまと王さまなど。

 

アリスが孤独な夢から解放されるのは、さいご。姉さんの膝を枕にねむっていた。起きた。夢の話をした。

アリスの現実が孤独かそうでないかはわからない。姉さんの視点で物語は終わるから。姉さんは大人になったアリスを想像する。長じても優しいままのアリスをおもいえがく。このくだりが感動的でびっくりしてしまった。

幼い者の物語や未来を信じてやることが《姉》の務めなのかもしれない。