大漁、異漁。耀

タイトルは タトゥーのようなもの

情念がほぐれる。神は居る。

シルク博物館に寄ってから、とりふね舞踏舎『サイ Sai 踊るべき人は踊り、歌うべき人は歌え』。

ずいぶん前に足をはこんだときよりも、いくらか観る眼が養えていた。上演時間90分が、あっという間に経つ。

立ちどまること、うずくまること――身体的な凝縮、緊張、静止のリズム。これを観に来た、と冒頭で胸がいっぱいに。つづくばめんは暗転ののち。舞台中央に、ピンポン玉を銜えた三人の老い。ながいこと無音。これは凄い、と観ていたらなんと音響トラブルで、仕切り直し。

ここで一寸、焦(い)れていたのが落ち着いた。深読みせずに舞踏の透明度へ近づいていく。

社会や、日常を離れた白塗りの肉体。この非日常性はほかのかたちで表現し得ぬ。たとえば過激な性戯というのも日常に属し、社会のなかで覗き見可能なものだから、かんたんに政治利用できる。しがらみのない身体を束の間生むのが舞踏である。

 

主宰、三上賀代。客演には演劇実験室◎万有引力の高田恵篤、森ようこ、三好嘉武人、内山日奈加。

かつては万有を目当てにとりふねを観たりもしたけれど、このたびは万有(『青森県のせむし男』)で気持ちをつくってとりふねに備えた。表現の非言語的な側面がだんだんわかるようになってきた。

外部の出演者には大駱駝艦出身の若林淳も。

 

ピンポン玉のばめんのあとは二人の若い踊り手。内山日奈加と五月女侑希だろうか。ケレンのない可憐。とりふねは衣裳の染めも好い。

転じて、若林淳の衣裳は鮮やか。「伸縮する鉱物」のような踊り。凶凶しくも優しい鬼。

構成・演出・振付は三上宥起夫。磔刑がプロペラになり、タイピングが風になる。