大漁、異漁。耀

タイトルは タトゥーのようなもの

「これが九ヵ月前なら、わたしだって彼女の経歴に怪しい点があると言ったかもしれない……」

グレアム・グリーン原作の舞台『叔母との旅』。観るまえから涙があふれ、終演後にはボロ泣き。抑えられない。

映画でいうと『シラノ・ド・ベルジュラック』(1990)や『アマデウス』(1984)のような、堂々たる「告白」の物語。あるいは「告白」へと近づいていくサスペンス。語り手であるヘンリーの「成長」など大した問題ではない。

脚色は、ジャイルズ・ハヴァガル。今回の加藤健一事務所版は加藤健一、天宮良清水明彦、加藤義宗。

もとは小説、一人称の語りだから「わたし」=ヘンリー・プリングを交代で演じるのは自然。そのうえでそれぞれのメインは加藤健一がオーガスタ叔母さん、天宮良が父のリチャード・プリング、オトゥール。

清水明彦はワーズワース、ミスター・ヴィスコンティ。加藤義宗は小道具を管理したり、終盤のヘンリーを演じたりなど。

いろんな事物が去来する。蓮實重彦夏目漱石論』で指摘される「占い師」や、安岡章太郎志賀直哉私論』の「出生の秘密」。小説とは、私小説とは、自然主義とは、アメリカとは、イギリスとは、イタリアとは、南米とは、とグレアム・グリーンの小説の国際性からさまざまなせかいが想起された。

フィクションというのは現実世界で失敗ったことの「やりなおし」でもあるが、一度きりのものとしてアクセルをふかしたさきの「延長戦」を目の当たりにすることでもあると、つくづく。

危険をかえりみぬ好奇心。小説からの引用になるがオーガスタ叔母さんの「わたしは無神経な人が好きなの。わたしを必要とする男なんか全然ほしくないんですよ」という科白は佳い。

 

五十代の男が、七十代の身内と世界を旅する。それじたいが叶えがたい夢のようでもあるし、年上に引っぱられるかたちで、というところにも作り話めいた旺盛な欲動がある。

いつかだれかとこんなふうに生きることができるだろうか。それとももう、生きたのだろうか。