大漁、異漁。耀

タイトルは タトゥーのようなもの

〈古代エジプト語で墓は「永遠の家」であり、墓場は「永遠の町」である〉

魂の形について (ちくま学芸文庫)

〈霊魂について語るといっても、もちろん宗教にかかわるわけではなく、また、哲学的な問題に立入るわけでもない。ここで話題となるのは魂そのものではなく、魂の形である〉

多田智満子『魂の形について』。〈ニーチェが告げたように神が死んだのであるなら、神と共に霊魂もまた滅んだのだといえるかもしれない。おそらく私たちは、昔の人々が生きていたのと同じようには、生きていないのであろう〉

明晰に展開していくことばの美しさに、ドキドキする。

未開人あるいは古代人から、彼等が魂についてどんな表象をもっていたかをきき出さなければならないであろう。彼等こそは、ひとりひとりが、未だ抽象もされず捨象もされぬ、感じられるがままの生きた魂の専門家であったのである。

多田智満子はたやすく時空を行き来する。数千年など何でもない。

日本語の古語「玉の緒」は「絶える」あるいは「命」を指す。〈玉の緒ということばから、私は古代エジプトのアンクというものを連想するのだが、あまりに突飛な思いつきに過ぎようか。アンクは「生きる」あるいは「生命」の意味で、(……)これは元来「サンダルの緒」を意味した〉

魂、また命にまつわる《不可視のヒモ》という表現がこちらを思考停止させるほどおもしろいのに、そこから髪の毛の霊性旧約聖書西遊記古代ギリシアの予言者と話はすごい速さで進んでいく。

 

若くして死んだ英雄ヤマトタケルこそはギリシア的な意味でのへーロース(半神的英雄)とみなされるにふさわしい人物であろう。

〈倭建命の英雄的な魂は病み疲れた肉体を脱ぎすて、白い鳥となって飛び立った。その鳥は神々寄りつどう高天原をめざすが、しかし古代の日本人にとって死の意味はつねに両義的である。魂は垂直に上昇するのではなく、むしろ根の国底の国へ、あるいは海の彼方の常世界へと向うものであろう〉

神話が神話をとりこんでいくので、ひとつの国、かぎられた歴史にあっても死後の世界はいくつも存在してしまう。白い鳥も、黒い鳥も霊性を帯びる。

烏を祀るのは、熊野。

〈北欧でも、オーディンはフギンHuginn (思考)とMuninn (記憶)という二羽の烏をしたがえている。オーディンは太陽神ではなく、特に死者の神としての性格が濃いので、思考(フギン)とか記憶(ムニン)とかいう神話的寓意以前の土俗的段階で、死霊=烏の観念連合があったことは確実である。また、ケルトの伝説では、例の騎士道ロマンスで名高いアーサー王は、最後に深傷(ふかで)を負って、アヴァロンという仙界の島へ運ばれるが、一説には烏の姿に変えられたともいわれる〉

古代エジプトのばあいは、〈太陽の舟が西に沈んで大地の裏側へ行くということからして、死の国のイメージが対照的な両義性を与えられている。つまり、オシリスの国は天上でもあり地下でもあるのだ〉。

オシリスの楽園(少くともその入口)は西方にあった。しかし、じつをいえば、太陽神ラーの天国は東方にあった。これは相容れない思想のように思えるが、この混乱はエジプト人オシリス信仰とラー信仰とが混淆した結果なのである。

大乗仏教でも、阿弥陀浄土は西方であるが、観音の補陀落浄土は南方と観念されたように、エジプト人の来世観でも二種の天国が併存していたもののようである。

 

ばらけていくだけでは、ことばにならない。

実に人間の外にある虚空こそ

人間の内部にあるこの虚空である。

 

『チャーンドーグヤ=ウパニシャッド

「それは米粒よりも、麦粒よりも、芥子粒よりも、黍(きび)粒よりも、黍粒の胚芽よりも微細である。しかしまた、心臓内にあるアートマンは大地よりも大であり、虚空よりも、天よりも大であり、、これら諸世界よりも大である」

密教では、即身成仏の立場をとるために、むしろ「肉団心」つまり、なまなましい臓器でありしかも精神的アートマン的な意味を含んだ心臓としての意味が強調される。ただし、じつをいえば仏教には魂の概念がない。五蘊皆空の存在には通俗的な意味での霊魂は考えられないからである〉

〈収縮した心臓が膨脹するように、宇宙がいくつもの劫(カルバ)を経て収縮から膨脹へと向うように、未敷(みふ)蓮華は、人類の若かりし日の神話と宗教と形而上学のすべてのみずみずしい朝露を含んで開敷するのである〉

〈古風な実体的「霊魂」が、機能的な「精神」からみすてられた後にも、ブラフマンアートマン的霊魂が否定される理由はない〉

 

眼をとじたとき

最初にこみあげるイマージュが

ぼくらの魂の色だ。

火の色、雪の色。

 

飯島耕一『見えないものを見る』

 

『魂の形について』の終盤は、曼荼羅と詩。ことばは視覚に近づいていく。論理で一望することはできない。見ることだ。形はたくさんのまなざしの集合であろう。