大漁、異漁。耀

タイトルは タトゥーのようなもの

「二人だと耐えられることが、一人だと、耐えきれなくなってくる」  『そして、飯島くんしかいなくなった』

BSプレミアム「プレミアムステージ」で『そして、飯島君しかいなくなった』(2000)観る。初めての(22年ぶりの)再放送とか。

演劇集団円による舞台。脚本は土屋理敬。演出、松井範雄。何をえがこうとしたか。冒頭のインタビューで土屋理敬は「告白」――島崎藤村の『破戒』に触れた。

何が「告白」されるのか。

解説も、感想も「二転三転」「急展開」とモヤがかかっているけれど、2000年、そして2022年も話題の一つであったのは少年法の改正。

それが語られるのは物語の中盤以降で、「少年法」を惹句として用い(られ)ないのはもったいない。舞台は市民集会所。「被害者をつくる会」という身のまわりの些細なことを報告し合う、ささやかだが、はしゃいだ、好事家の空気(大竹周作、佐々木睦、米山奈緒、鈴木佳由)。

クローズドな会だったのに、チャットで存在を知り、このばしょを突き止めた男(上杉陽一)が、寡黙な青年(瑞木健太郎)を連れて現れる。

集会所の職員(佐藤直子)、ウェイトレス(水町レイコ)。赤の他人のようなのに、ときどき覗きに来る男(渡辺穣)。

「被害者」という言葉には皆、敏感になる。「被害者をつくる会」とは被害者なのか、加害者なのか。

被害者を「つくる」ということは、加害者が「いない」のでもある。もちろん、事故があり事件があって少年法は改正される。加害者はどこかにいる。見えなくなっているだけなのだ。

「(弟は)いつもとおんなじ顔をしてたよ。でも、口の端のところが細かく痙攣してるの。

『風呂沸いてる?』

普通の顔で聞いたけど、ずうっと痙攣してるの。止まらないの。

あたしあの顔見てるんだもん。いなかったことになんかできないよ。でもお父さんもお母さんも忘れろってそればっかり。」

「いない」「見えない」、それはイマジナリーなことばかりでない。リアルな世界において見えないもの、見えなくなっていくもの。そこに触れる瞬間がドラマなんだと改めて気づかされる。

器用な振る舞いよりも、不器用な人間を観たいのだ、たぶん。