「『行水の女に惚れる烏かな』」「何です?」「いや、高浜虚子の句だ。虚子もきっと、マドンナを見たんだな……」「何をです?」「おまえは綺麗だな。気が付かなかった」
1975年の映画『吾輩は猫である』。監督市川崑。脚本八住利雄。
伊丹十三演ずる迷亭がパアパアパアパアしゃべるところから映画ははじまる。猫は、とりあえず口をきかない。
家の主人・珍野苦沙弥の仲代達矢がとても佳い。まわりの演技や世界観を受け入れながら、ゆるりと。時に激昂し、高調子になる。そのメリハリ。
だれもが知っている小説を、みんなで好演している。岡本信人、前田武彦、三波伸介、左とん平、蟹江敬三、緑魔子など。篠田三郎が二枚目。
苦沙弥の妻に波乃久里子。姪の雪江には島田陽子。
男尊女卑というか女性嫌悪の気味がある夏目漱石に抗うように、おんなたちがつよい。
雪江が「女って、どうして結婚しなければいけないのかしら?」と呟くと、苦沙弥の妻が「しなくったっていいの」。
その直後に妻は声を張って日常会話にもどっていく。本音と建前、というとギロンじみた対決で時空がギスギスするが、そうではない。本音はすきま、すきまに生まれるもの。その間隙の扱いが巧い。
迷亭は言う。
「文明が進むと個性が発展する。個性の発展は、結婚の不可能に通じる。つまり、親類縁者のつながりはすでに遠くなり、近ごろは親子も別居の習わしが増えた」
さいご、猫がとつぜん語り手となる。感動的な構成だ。泣いた。