大漁、異漁。耀

タイトルは タトゥーのようなもの

帰還と再会。あるいは、再会と帰還。

マリールイズいえでする

N.S.カールソン作、J.アルエゴとA.デューイ絵、『マリールイズ いえでする』。

マリールイズは、ちゃいろのマングースの おんなの子です。

さとうきびばたけのなかにある ちいさな かやぶきのうちに、

かあさんといっしょに すんでいます。

 

マリールイズは、いつもは よい子です。

でも、ある日、わるい子になりました。

絵本にある、スタートの早さが良い。〈マリールイズは、ちゃいろのマングースの おんなの子です〉だけで泣けてしまう。これは外からの客観描写なのだけれども、それでいてマリールイズの自負や不満がみえてくる。そして当然、〈ある日、わるい子になりました〉。

いたずらをして、怒られて、「かあさんは、もう あたしのこと、きらいでしょ」とかんがえる。

「きっと、おなかがすきますよ。サンドウィッチをつくるから、もっていったら?」と、かあさんはのんびりかまえている。子の冒険をどこまで見守るか、リアルにさまざまなケースをおもえばむずかしい問題でもある。

マリールイズは、いろんな生きものの家をたずねる。どこか、じぶんに合った新しいおうちがあるのでは。

子どもには、飛びでていく自由がある。それは、永遠とは相性のわるいもの。飛びたい、とおもうのは着地したいということでもある。マリールイズは〈さとうきびばたけのなかにある ちいさな かやぶきのうち〉に帰るだろう。そういう自由もある。それはそれでじゅうぶんに泣ける。

「二人だと耐えられることが、一人だと、耐えきれなくなってくる」  『そして、飯島くんしかいなくなった』

BSプレミアム「プレミアムステージ」で『そして、飯島君しかいなくなった』(2000)観る。初めての(22年ぶりの)再放送とか。

演劇集団円による舞台。脚本は土屋理敬。演出、松井範雄。何をえがこうとしたか。冒頭のインタビューで土屋理敬は「告白」――島崎藤村の『破戒』に触れた。

何が「告白」されるのか。

解説も、感想も「二転三転」「急展開」とモヤがかかっているけれど、2000年、そして2022年も話題の一つであったのは少年法の改正。

それが語られるのは物語の中盤以降で、「少年法」を惹句として用い(られ)ないのはもったいない。舞台は市民集会所。「被害者をつくる会」という身のまわりの些細なことを報告し合う、ささやかだが、はしゃいだ、好事家の空気(大竹周作、佐々木睦、米山奈緒、鈴木佳由)。

クローズドな会だったのに、チャットで存在を知り、このばしょを突き止めた男(上杉陽一)が、寡黙な青年(瑞木健太郎)を連れて現れる。

集会所の職員(佐藤直子)、ウェイトレス(水町レイコ)。赤の他人のようなのに、ときどき覗きに来る男(渡辺穣)。

「被害者」という言葉には皆、敏感になる。「被害者をつくる会」とは被害者なのか、加害者なのか。

被害者を「つくる」ということは、加害者が「いない」のでもある。もちろん、事故があり事件があって少年法は改正される。加害者はどこかにいる。見えなくなっているだけなのだ。

「(弟は)いつもとおんなじ顔をしてたよ。でも、口の端のところが細かく痙攣してるの。

『風呂沸いてる?』

普通の顔で聞いたけど、ずうっと痙攣してるの。止まらないの。

あたしあの顔見てるんだもん。いなかったことになんかできないよ。でもお父さんもお母さんも忘れろってそればっかり。」

「いない」「見えない」、それはイマジナリーなことばかりでない。リアルな世界において見えないもの、見えなくなっていくもの。そこに触れる瞬間がドラマなんだと改めて気づかされる。

器用な振る舞いよりも、不器用な人間を観たいのだ、たぶん。

熱烈に愛される。期待される。自由の可能性。しかし、

フィスコットーネ『加担者』観る。プロデューサー・綿貫凛、演出は稲葉賀恵。

作、フリードリヒ・デュレンマット(翻訳、増本浩子)。

デュレンマットには2021年9月の『物理学者たち』(ワタナベエンターテインメント主催。本多劇場)、2022年6月の『貴婦人の来訪』(新国立劇場)と触れてきた。演出家や俳優の名で舞台を観に行くことも多いが、そのモトとなる戯曲がリアリズムにして荒唐無稽だと衝撃も大きい。

アンダーグラウンドに始末された人間を、化学的に溶解する仕事。『加担者』が書かれた1973年は第二次世界大戦のグロテスクな部分を語れるようになった頃でもあろう。この仕事にドク(小須田康人)が就いたのは、タクシー運転手として暗黒街のボス(外山誠二)を乗せたことから。発案し、じぶんにはそれができると売りこんだのだ。

ドクは企業の研究職だった。それが不況でかんたんに解雇されてしまった。「都市の残りカス」、「使われることのない知の貯蔵庫」、「インテリの肉体労働者」と自嘲するドク。妻子とも別れた。感情よりは数字で動く計算高い男だったはずが、人間溶解の仕事をはじめて、どこかシンプルに、ウブにもなって、ひとを恋して生の出口を見うしなう。

物語における恋は、当然《英雄》の条件だ。《劇》としての英雄はすべてを喪失しなければならない……。

 

演出にも題材にもフィルム・ノワールのようなところがある。ドクと恋に落ちるアン(月船さらら)。人間溶解業に入りこんでくる白か黒かわからぬ刑事コップ(山本亨)。ドクの息子で、母の再婚により企業社長の座を相続することになったビル(三津谷亮)。

時間の扱いも演劇としては大胆で、物語のさいごに死体として運ばれてくるビルとジャック(大原康裕)が、舞台中盤で《死者》として顛末を語ったりする。

キャストはほかに内田健介、伊藤公一、喜田裕也。

大統領暗殺や国葬についても語られる。帝国主義的な《神話》とカネ。

ドクは、ボスともビルともちがって政治的な物語をもたない。そのせいもあって英雄的な判断をしそこねる。現代社会で英雄である必要もないけれど、ではなにを手本として生き延びようか。

2時間15分。休憩なし。

いつもどおりでないという、高揚と緊張感。

『侍BRASS 2022 《舷墻》』行く。澤田真人の代わりに浦井宏文が出演というのは知っていた。会場に着き、パンフレットをひらいて、「一部出演者・曲目変更のお知らせ」にエリック・ミヤシロが出ないと書かれていて、これはおどろいた。目当てにしてきたから。

「2006年から17回目の東京オペラシティコンサートホール。侍BRASS、最大の危機を迎えました」と中川英二郎。常の、明るくて精力的な中川英二郎とはちがう一面を見ることになる。

「ごめん。濃厚接触者になっちゃった」と今朝エリックからメッセージがあったらしい。それで、セトリの変更が凄い。エリック・ミヤシロの代わりに小澤篤士。奏者は皆、集中。

 

第1部は「舷墻」「鍔音」「宝船」「エルトゥールルの奇跡」「侍《SAMURAI》」。

休憩あって第2部「シェエラザード」「跳ね馬の背に(「Figurehead」から変更)」「海賊弁慶丸」「マカロニ侍(エンニオ・モリコーネニーノ・ロータニニ・ロッソ

を1曲ずつ、オッタビアーノ・クリストーフォリが。「トランペット吹きの休日」からの変更)」「ロッキーのテーマ(「He's a Pirate」から変更)」。

アンコールは「宝島」「剣」。

 

演奏会の当日に曲目がここまで引っくり返るとは、かんがえたこともなかった。

上品なセレクトから一転、ダイナミックでキャッチーな曲が並んだけれども、この珍しさ、舶来の感じはテーマとしての海洋を持続させていた。奏者も、観客も一つになって航行の無事を祈る。

侍BRASS、プロである。ミスなく乗り切り、格好良かった。

恋はケレン

サイモン・スティーヴンス作『ハイゼンベルク』。

75歳の男と、40代の女。出あった二人の距離が近づく。色恋を支えるのは純粋な動機ばかりではない。打算もあろう。それをあいてが容れてくれるか、また自身で認められるかどうか。そういう会話劇であったようにおもう。

出演は平田満小島聖。演出、古川貴義。ダブルキャストのもう一方のチームは全公演中止となった。

 

「毎晩、仕事が終わると歩いて帰る。途中で、ベンチに座る。おなじ公園の、おなじベンチ。そこでいつも音楽を聴く」
「歩いて帰るの?」
「そうだよ」
「クラパムコモンまで?」
「ああ」
「どれくらい掛かる?」
「1時間半」
「それを……毎日?」
「毎日。好きなんだ、歩くのが。歩きながら、頭の中で、詩を書いてる。年とって、頭のおかしくなったクマのプーさんみたいだろ? ふっふっ、ほかになにしてるかなあ……家の中でクソまずいビスケットを食うくらいか」

このくだりで、ぼろ泣きしてしまった。A・A・ミルンクマのプーさん』への思い入れ。

書店に平積みされた文庫新刊でなく、さがして買い求めた初めての単行本はミルンの詩集『クリストファー・ロビンのうた』『クマのプーさんとぼく』だったかもしれない。

石井桃子訳の『プーさん』に衝撃を受け、小田島雄志・小田島若子の訳した詩集に痺れまくった。その記憶がよみがえった。

クマのプーさん』の住人たちは個人主義的で、偏屈。エゴイスティックだし、エキセントリック。ヒトというのはこういうものだと思い定めれば、だれとでも恋愛ができるようになる。

ハイゼンベルク』に登場するジョージー小島聖)は、いわゆるサイコパスなんだろう。初手から狡い計算があったというより、近づいたことで、どれだけじぶんが許されるのか試してみる気になった。全身全霊で愛されてみたくなったのではないか。それを邪悪と呼ぶかウブとみるかはひとそれぞれ。アレックス(平田満)はかんがえて、呑んだ。そういうかたちで役に立つ生きかたもあるのだと。

頑健で、孤独の結果の平穏を手にしたアレックスが『クマのプーさん』の世界と近いのは、わかる。厭世的に老いたことを、自嘲する。

 

「クソまずいビスケット」という悪ぶった言い回しはアレックスが、ジャージーの真似をしたもの。ジャージーだって板についているわけではない。そこがかなしい。

野生児と学者の恋のような、異類の出逢いが美しかった。

白石加代子の役名はカヨでもよかったんだと一寸夢想した。

KAATキッズ・プログラム2022『さいごの1つ前』観る。

目当ては白石加代子(1941年生)と久保井研(1962年生)の共演。作・演出は松井周(1972年生)。

ほかに出演者は薬丸翔(1990年生)、湯川ひな(2001年生)。

冒頭、映画を観ているカオル(白石加代子)、ミチロウ(薬丸翔)、マリン(湯川ひな)。映画でなにが起こっているのか、あのひととこのひとはどういう関係なのか、声にして尋ねずにはいられないカオルの性格、演技はいっぺんで判る。

ここは機内。3人は地獄に向かっている。

地獄への案内人アキオ(久保井研)。異界をかんじさせるカオナシマグリットふうの衣裳。どこか子供っぽいところがある。そして音楽的。久保井研と白石加代子のキッズみを凝ッと視る。

白石×久保井が強力過ぎて、薬丸翔と湯川ひなが組むようなかたちになってしまったけれども、台本のなかに見いだせるコントラストを重んじれば、地獄に行きたいマリンと案内人のアキオが結託し、当然天国だとかんがえる若き成功者ミチロウと認知症ぎみのカオルが共鳴したほうが観易い。

白石加代子と久保井研の見せ場が終盤にあるからこそ、二人は道中絡み過ぎなくとも良い、という判断もできたわけだ。

観客に参加を促したり、天国と地獄なんていう議論を超えた高次の宇宙や神に触れるばめんなど、自由につくられている。ならば天国行きの可否を決める「最高の思い出」の審判も、教育的でなくてもよかったのでは?

 

松井周のつくりかたは、既成概念をくつがえすようで二項対立をより強固にしてしまうところがある。事前にひらかれたワークショップでも「すてきな地獄」「楽しくない天国」と、きれいに反転させている。もちろんキッズの柔軟かつ野蛮な創造性はそんなことでとどまりはしない。

「りゅう すべり台じごく」「電車ごっこ ピクニック じごく」「すとれすはっさん地国」「おばけじごく」……。

すてきな地獄として「ねこ地ごく」があり、楽しくない天国にも「けっこーイヤなねこ天国」は存在する。《ねこ》は双方にまたがる。両義的で矛盾するイメージというもののおそろしさ。それをそのまま料理するおおらかさ。あるいは図太さだろうか。それを大人の作物にももとめたい。

 

じぶんは無謬であると信じて疑わないシスヘテロ男性を演じる薬丸翔は苦戦していた。無謬は、見ていて退屈だ。エンタメにするのはむずかしい。

湯川ひなが演った負の感覚つよき少女マリン。こんな声がでる。こんな動きができる。熱演だった。

〈古代エジプト語で墓は「永遠の家」であり、墓場は「永遠の町」である〉

魂の形について (ちくま学芸文庫)

〈霊魂について語るといっても、もちろん宗教にかかわるわけではなく、また、哲学的な問題に立入るわけでもない。ここで話題となるのは魂そのものではなく、魂の形である〉

多田智満子『魂の形について』。〈ニーチェが告げたように神が死んだのであるなら、神と共に霊魂もまた滅んだのだといえるかもしれない。おそらく私たちは、昔の人々が生きていたのと同じようには、生きていないのであろう〉

明晰に展開していくことばの美しさに、ドキドキする。

未開人あるいは古代人から、彼等が魂についてどんな表象をもっていたかをきき出さなければならないであろう。彼等こそは、ひとりひとりが、未だ抽象もされず捨象もされぬ、感じられるがままの生きた魂の専門家であったのである。

多田智満子はたやすく時空を行き来する。数千年など何でもない。

日本語の古語「玉の緒」は「絶える」あるいは「命」を指す。〈玉の緒ということばから、私は古代エジプトのアンクというものを連想するのだが、あまりに突飛な思いつきに過ぎようか。アンクは「生きる」あるいは「生命」の意味で、(……)これは元来「サンダルの緒」を意味した〉

魂、また命にまつわる《不可視のヒモ》という表現がこちらを思考停止させるほどおもしろいのに、そこから髪の毛の霊性旧約聖書西遊記古代ギリシアの予言者と話はすごい速さで進んでいく。

 

若くして死んだ英雄ヤマトタケルこそはギリシア的な意味でのへーロース(半神的英雄)とみなされるにふさわしい人物であろう。

〈倭建命の英雄的な魂は病み疲れた肉体を脱ぎすて、白い鳥となって飛び立った。その鳥は神々寄りつどう高天原をめざすが、しかし古代の日本人にとって死の意味はつねに両義的である。魂は垂直に上昇するのではなく、むしろ根の国底の国へ、あるいは海の彼方の常世界へと向うものであろう〉

神話が神話をとりこんでいくので、ひとつの国、かぎられた歴史にあっても死後の世界はいくつも存在してしまう。白い鳥も、黒い鳥も霊性を帯びる。

烏を祀るのは、熊野。

〈北欧でも、オーディンはフギンHuginn (思考)とMuninn (記憶)という二羽の烏をしたがえている。オーディンは太陽神ではなく、特に死者の神としての性格が濃いので、思考(フギン)とか記憶(ムニン)とかいう神話的寓意以前の土俗的段階で、死霊=烏の観念連合があったことは確実である。また、ケルトの伝説では、例の騎士道ロマンスで名高いアーサー王は、最後に深傷(ふかで)を負って、アヴァロンという仙界の島へ運ばれるが、一説には烏の姿に変えられたともいわれる〉

古代エジプトのばあいは、〈太陽の舟が西に沈んで大地の裏側へ行くということからして、死の国のイメージが対照的な両義性を与えられている。つまり、オシリスの国は天上でもあり地下でもあるのだ〉。

オシリスの楽園(少くともその入口)は西方にあった。しかし、じつをいえば、太陽神ラーの天国は東方にあった。これは相容れない思想のように思えるが、この混乱はエジプト人オシリス信仰とラー信仰とが混淆した結果なのである。

大乗仏教でも、阿弥陀浄土は西方であるが、観音の補陀落浄土は南方と観念されたように、エジプト人の来世観でも二種の天国が併存していたもののようである。

 

ばらけていくだけでは、ことばにならない。

実に人間の外にある虚空こそ

人間の内部にあるこの虚空である。

 

『チャーンドーグヤ=ウパニシャッド

「それは米粒よりも、麦粒よりも、芥子粒よりも、黍(きび)粒よりも、黍粒の胚芽よりも微細である。しかしまた、心臓内にあるアートマンは大地よりも大であり、虚空よりも、天よりも大であり、、これら諸世界よりも大である」

密教では、即身成仏の立場をとるために、むしろ「肉団心」つまり、なまなましい臓器でありしかも精神的アートマン的な意味を含んだ心臓としての意味が強調される。ただし、じつをいえば仏教には魂の概念がない。五蘊皆空の存在には通俗的な意味での霊魂は考えられないからである〉

〈収縮した心臓が膨脹するように、宇宙がいくつもの劫(カルバ)を経て収縮から膨脹へと向うように、未敷(みふ)蓮華は、人類の若かりし日の神話と宗教と形而上学のすべてのみずみずしい朝露を含んで開敷するのである〉

〈古風な実体的「霊魂」が、機能的な「精神」からみすてられた後にも、ブラフマンアートマン的霊魂が否定される理由はない〉

 

眼をとじたとき

最初にこみあげるイマージュが

ぼくらの魂の色だ。

火の色、雪の色。

 

飯島耕一『見えないものを見る』

 

『魂の形について』の終盤は、曼荼羅と詩。ことばは視覚に近づいていく。論理で一望することはできない。見ることだ。形はたくさんのまなざしの集合であろう。