大漁、異漁。耀

タイトルは タトゥーのようなもの

〈迷うた道でそのまま泊る〉

大駱駝艦 天賦典式『のたれ○』観る。

集団で踊る。ソロとちがったユーモアが生まれる。『のたれ○』は種田山頭火の生涯を追った。

開演時間になると、客席通路に行乞の山頭火が現れた。それも五人。経を唱え、観客に銭をねだる。あちらこちらで。山頭火の厚かましさ、不気味さ、可笑しさを間近に見る。舞台がはじまる。かれ(ら)の幼少期、母の死。

死の瞬間をストップモーションにすることで、家族の悲喜こもごもが誇張される。ここも笑えるばめんだ。

山頭火は、傷を抱えて生きた。忘却したり無反省になったりできなかった。その態度が、喜劇的なのである。種田山頭火のマゾヒスティックな甘えは、突き放されているようにみえた。舞台で逆さに吊られもする。それを、山頭火の心身に巣食う歌詠みたちに小突かれる。

舞台に登場する歌詠みたちは菅原道真西行源実朝松尾芭蕉

東風吹かば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ

 

出でいなば主なき宿となりぬとも軒端の梅よ春を忘るな

和歌や俳句の引用もあって、舞踏としては台詞が多かったかもしれない。ばめんも素直だった。売春宿や、亡き母と弟や、(現代の?)働く女性たちなど。

山頭火が知っている戦争は日中戦争だった。それは新聞記事、出征、経済状況によってわかることだから、きな臭い寂しさが募るのみだ。さいごのばめんに降るものは塵埃か、雪か、日記の灰か。

それを拾いあげると、自由律の俳句である。舞踏家たちが声にする。演出は、直球だった。『のたれ○』の「○」は珠でもあったようなのだ。

「眩しいなあ。夏の青い空がワチには眩しい」

『相対的浮世絵』観る。脚本・土田英生。初演は2004年。

2010年に再演。そして今回の2019年。

中年期を迎えた同窓の男二人のもとに、高校時代に亡くした旧友と、弟が現れるようになる。おばけとか幽霊というふうに呼ばれるのはいやがるが、どうやらそういうものである。

 

山本亮太(宇宙Six)、伊礼彼方、石田明NON STYLE)、玉置玲央、山西淳とおせちのように豪華なキャスティング──ジャニーズ、ミュージカル、お笑い、小劇場(中堅、ベテラン)と、とりどりのジャンルからやってきたメンツを「同級生4人とその弟」として演出の青木豪がみごとにまとめた。

舞台には、能のけはいもある。そのうえで、そこを外してくる可笑しさもある。

死者のところから舞いもどってきた、けれどもじぶんたちのありようがよくわからないふわふわした立場を演じたのが山本亮太と玉置玲央だ。明るく、善意でいっぱいで、そこが浮世の伊礼彼方と石田明には不可解だし、突き刺さる部分でもある。生きている者として罪と罰を意識すれば、これまでとちがった行動をとることもあろう。

突飛と、緊張感と、収斂。ひと息にみせる舞台だった。脚本も、俳優もよかった。

標準語とは一寸ずれた架空の方言で会話される。そのために、台詞の上ッ面をなぞる嘘くささがなくなる。リアリティの獲得。山本亮太を初めて観たけど、とても自然にこなしていた。

パンフレットを読むと、山本亮太明晰。しっかりしている。

僕は十八年の間、ジャニーズの舞台作品にたくさん出演させていただきましたが、外部舞台に役者として出演させていただくようになったのはここ二年くらいなんです。それ以前の本番ではお客様に向けてどう芝居をしていくか、稽古では演出家の方に見ていただいて、どう直していただくかに集中することが多かった。だから自然と、体が正面を向いていることが多かったんですね。でもこうした作品は、ときにはお客様に背を向けるくらいの感覚でやらないと成立しない気がして。

実際、客席に背を向ける場面が幾度もある。ここは演出家だろうか、役者の発案だろうかと観るのも刺激的だった。

山本が「少人数で濃密な舞台をやるという機会は今後も限られると思うので、そこも楽しんでいただきたい」と語っているのが印象にのこる。

 

執筆中でなく、すでに完成している戯曲だからパンフレットもおもしろい。俳優陣が読みこんできている。

伊礼彼方は「『このままではいかん』と遠山や達朗が来たのか、あるいは智朗や関が呼び出したのか……。時には遠山や達朗が、智朗が内面から生み出した存在のように思える瞬間もあって」。「リアルな兄弟でいながら、存在する次元の違いが起こすノッキングをどう表現しようか」と。

伊礼が演じる智朗と、石田明の関には共通するだらしなさがあるのだが、そこにもちがいがあり、石田はハッキリと区分している。「これは十五年前に初演された作品ですが、初演時には関の問題もすんなり見られていたと思うんです。でも今はちょっと『ん?』となる人も多いかもしれません。ただ、実際にそういう人はいるわけだし、ここを単にオモシロのような感じでやってしまってはあかんなと思うんですよね」。

「関たちが通っていた高校は男子校ではないですけど、ノリとして男子校の雰囲気ですよね。こういう集団で過ごした日々は色褪せないじゃないですか」

関の台詞に「この年齢になるとそうそう心を割って話せるような友人は新しく作れんでなあ。しかし人間誰しも心を許せる人間は必要だわ。するとどうなる? 頼りになるのはやっぱり昔からの知り合いだという結論だわなあ」という言葉がありますけど、まさしくそうで。

 

ある程度の年齢になって家庭があると、物事をフラットに眺めながら、上がれるところは上がる、下がるところは下がるという考え方になってくるじゃないですか。それがすごくこの物語ともぴったりだなって。

 

野村役の山西淳。「智朗や関は、壁を乗り越えようとせずに逃げることで引き返せなくなって悩む。でも、野村には先がないから悩む必要もないし、あの中で異質な存在だからなのか、とても客観的なんですよね。

ただ、野村の視点から智朗や関を見ると、悩めることを素晴らしいとも感じるんですよ」

anan(アンアン) 2019/11/20号 No.2176[体内美容レシピ79/岸優太]

険しい若者の顔はなく、あどけない。幼時をのこしたまなざしが愛しい。

『アンアン』2019.11.20、岸優太。「正直、『アンアン』の表紙は、30代くらいに決めたいと思っていたので、“まだ、色気発展途上の今でいいの?”と驚きました」にはじまって、でてくることばがぜんぶ好い。このひとの液状のたましいをバケツでドバンドバン浴びせられているようで、こちらの心臓が溶ける。

控えめで、生き急ぐことはけっしてなく、晩成、というのは青年の焦りがない永遠のような時の捉えかた。

そもそも、見せたがるほどの体になれていないし、イタい感じが出ちゃうと嫌だから隠します。ライブでも本当はずっと脱いでいたいけど、あえてボタンを留める、“控えめ系筋肉”でいきたい。でも、家では鏡で体を見るし、毎日のように写真を撮るので、携帯の写真フォルダーが筋肉日記みたいになっています。自分しかいない空間だからいいんです。

「自分らしさって、なかなか見えてこないですから」も凄い。「モテ」とか「流行り」でなく、「自分の好きなことをしているほうが大事だと思うし、その人らしさこそが魅力だと思う」としつつ、それをみつけるのはむずかしいと。

岸優太が、お酒を飲まないひとだからかもしれない。独立不羈。だれかとつるんでワアワアと時間を使うイメージがない。

食べものに関しては昔も今も頑なで蕎麦、たこわさ、サンマの肝。「ちょっとずつ、ベロでゆっくりと味わいながら食べています」滋味。美食家の、澄んだ境地。と思いきや蕎麦は蕎麦でも「コロッケそば」だったりする。

へんに気取ったところがない。だから挑発も、扇情もない。それでも官能の側にいて、清潔で、奥ゆかしいままアイドルである。

伸縮自在の人食い虎

高丘親王航海記 (文春文庫)

先行くものを想うから、虚構は生まれる。オマージュと奇想。

ITOプロジェクトによる「糸あやつり人形芝居『高丘親王航海記』」を観た。原作は澁澤龍彦の小説。脚本・演出、天野天街

おかしな話である。澁澤龍彦がおかしいのか、天野天街がおかしいのか、人形劇団ココンや糸あやつり人形劇団みのむしがおかしいのかとにかく稚気に満ちていた。そしてところどころ、凶凶しかった。

 

開場してさいしょに見るのは舞台に横たわる人形。糸あやつりなのに糸が張られていない。ハナからカマしてくる。ここのひとたちは様式や物語を何度でも転倒させてくる。それを観たくて、化かされたくてここに来たので、ああもう劇のあいだずっと、おどろいたり笑っていればいいのだとはやくも胸はいっぱいだ。冒頭は、原作のようでない。折口信夫死者の書』だろう。

そんなことに震えていると、20世紀フォックスの如き21世紀ユニバーチャルのオープニングロゴが映しだされ、その数字がぐんぐんと減り。9のところでやっと止まって《9th》──高丘親王の時代となる。高丘親王の芯にあるのは、幼時に薬子から教わった天竺というところ。

天竺では、なにもかもがわたしたちの世界とは反対なの。わたしたちの昼は天竺の夜。わたしたちの夏は天竺の冬。わたしたちの上は天竺の下。わたしたちの男は天竺の女。天竺の河は水源に向ってながれ、天竺の山は大きな穴みたいにへこんでいるの。まあ、どうでしょう、みこ、そんなおかしな世界が御想像になれまして。

物語には、おおきな鳥がでてくる。そしてピンク色のジュゴン。マントを羽織ったオオアリクイ

 

ジュゴンは、にんげんのことばを覚えて旅に加わる。陸地にまでついてくる。そしてしぬ。

死ぬ前に秋丸に向って、はっきり人間のことばでこういった。

「とても楽しかった。でも、ようやくそれがいえたのは死ぬときだった。おれはことばといっしょに死ぬよ。たとえいのち尽きるとも、儒艮(ジュゴン)の魂気がこのまま絶えるということはない。いずれ近き将来、南の海でふたたびお目にかかろう。」

にんげんとオオアリクイのやりとりも凄い。高丘親王の連れが「わたしもあえてアナクロニズムの非を犯す覚悟で申しあげますが、そもそも大蟻食いという生きものは、いまから約六百年後、コロンブスの船が行きついた新大陸とやらで初めて発見されるべき生きものです。そんな生きものが、どうして現在ここにいるのですか」と言えば、オオアリクイは「おれたち一類の存在がコロンブスごときものの発見に左右されるとは、とんでもない言いがかりだ」と返す。

「おれたちは新大陸の大蟻食いにとってのアンチポデスなのだ」

「アンチポデスといったな。そのアンチポデスを見んがために、わたしははるばる天竺への渡航をくわだてたといっても過言ではなかろう」

 

犬人(いぬじん)、蜜人(みつじん)といったグロテスクなエロが舞台を覆うこともある。場面が変わるたびにおどろく。ここら辺りがこのひとたちの表現のヤマかな、と観ていてもそのヤマをつぎつぎ越えていくのだから。迦陵頻伽の登場で終幕。カーテンコールに現れた糸あやつりのひとたちの平均年齢は高かった。

ITOプロジェクト✕天野天街のDVD『平太郎化物日記』を買って帰った。

種田山頭火賞受賞のハナシやそこから生まれる『のたれ○』のことなど

『舞踏の生まれるところ  麿赤兒大駱駝艦 武蔵野文化』に行く。インタビュアー鈴木理映子。成蹊学園本館大講堂。

成蹊大学に新設される芸術文化行政コースのPRの一環として、吉祥寺にスタジオをかまえる麿赤兒にも話が回ってきた。

「白塗りで自転車に乗って、銭湯に行ったりしましてね。ときにヒロイックな気持ちになったり、『何やってんだ俺は』と情けないような思いをしたりね」

 

麿赤兒の登壇前、客席にしきりと野次を飛ばす老人がいて、観覧者とも口論になった。サングラスに、白髪のかつら。退場させられる。

二十世紀的なハプニングではある。私怨を伴う攻撃は青年的で、老人の心は若いのだろうとおもったけど、麿赤兒は年をかさねた。艦員にものを教えるときも理論的な部分(白塗りの意味など)は省くようになったそうだし、時間がなくなるにつれ大づかみに本質、本質、本質を伝えていくこととなり、喜怒哀楽に振り回されてはいられない。激越なものは置きざりだ。

「じっとしていることのテンション」や「身体の変な可能性」と麿は言い、《異化》《ケレン》といった理解しやすい用語も口にした。難解でないし、冷静である。

 

台風で延期になったが山中湖 文学の森「三島由紀夫文学館 開館20周年記念フォーラム」で上演するはずだった『ハグクミ申ス者─三島由紀夫に捧ぐ─』の振付・演出は大駱駝艦の田村一行。この成蹊大学で初披露となった。麿も初見。いろいろ言おうとしてグッと呑んだ麿赤兒が可笑しかった。

「人間、どこかで寂しさを持っていないと人間になれないでしょ」  鬼海弘雄

ことばを写す 鬼海弘雄対話集

平凡社。写真家・鬼海弘雄の対話集。となりに山岡淳一郎。

「はじめに」で鬼海は〈自分の歩幅を守り続けるのは、簡単なようで難しい。どのようにして歩幅を保ってきたかは、それぞれの対話に語られている。キーワードの一つは「旅」だ〉と記す。ゆるやかながら、きりりとした姿勢。

堀江(敏幸) いまは簡単に発信できますから、体験を寝かせずにすぐ外に出すことができる。それで終わってしまう人もいます。

鬼海 表現の回路が細いでしょ。いきなり高速道路を100キロで飛ばして目的地に着こうとする。でも、写真という表現は、もっと濁ったなかをのたのたと走るものでね。

「情報」と「表現」のちがいがはっきりしている。

「フィクションって時代や世代をまたぐって要素が必要です。現在にばかり執着すると、前にも後ろにもいかない」と鬼海。

平田俊子との対話では、

平田 よく鬼海さんは写真は何も写らないっておっしゃいますよね。

鬼海 思う心がないとダメなんですよ。表現って、情報を超えて、ポッと世界を丸くしたいという願望がないとね。

平田 写らないとすれば何を撮ろうとしているんですか。何を願って撮っているんだろう。

鬼海 写真を見て、少し人間を好きになって、少しだけ未来が見えるといいだろうと単純に思ってます。

と、表現というものがもつ未来について。

ひとの傷や寂しさを捉えつつ、未来や仕合わせを信じる。

鬼海 圧倒的に肯定から始まっていかないと否定を入り込ませられない。それはフェリーニチェーホフから学びました。

鬼海のことばは「肯定」とか「退屈」とか、実働の場で根を下ろしたところから来る。夢のようなものではない。

そのまえに、きっと好奇心がある。おなじ味をもとめて旅にでることもあれば、なにかに飽いての旅もあろう。

池澤夏樹はむかしもいまもわくわくしている。「ほかの土地にはほかのものがあるらしいというだけで行ってみたくなる」。作家的想像力かもしれない。鬼海と対話する堀江敏幸は「フランスの小説を読んでいて、たとえば光の加減が気になって仕方なかったんです。夏は日が長いので、どんな感じなのかとか。それと土地の高低差ですね」。

堀江 ある場所からある場所に移動するとき、主人公がどんなふうに歩いているのか。フランスの詩を翻訳するときにも気になった。下るのか、上るのか、平面的な地図じゃわかりません。地図では距離が離れているのに短時間でどうして移動できるんだろうとかね。交通機関もわからない。行ってみて、バイクで移動したんだろうと気づいたりしました。

写真家と対比するかたちで小説家を置くこともできそうだけれど、どちらにも肉体労働的な単純さを見いだし得る。堀江敏幸が言う。「ものを書いているときって、牛みたいに迷っているんですよ」

この牛は、鬼海がアナトリアで見た牛の話。〈村の入り口に二股の道がありましてね。そこで若い牛が1頭、迷っていたんですよ。どっちに行くか〉──そのすがたは〈家畜じゃないでしょ。人と変わりません〉。

書くときに迷うように、読みの場でも迷ってみる。ゼミで堀江は、本をゆっくり読むことをおしえている。「小説に出てくる建物の周りが石畳なのか、ぬかるみなのか、土なのか。登場人物は靴を履いているのか、いないのか、足音はコツコツか、ぴちゃぴちゃか、そういうことを考えながら読んでいるんです」

「授業が始まって3回で、文庫本の3、4ページしか進んでいません」

 

対話のあいては山田太一荒木経惟平田俊子道尾秀介田口ランディ青木茂堀江敏幸池澤夏樹

田口  単純労働をくり返している人って、なぜかカッコいいんですよ。

鬼海 それは、たぶん自分は特別な人間じゃないって思っているからだよね。

「映画はまだ慣れません。余裕なんてなくて、がむしゃらにやっています」  平野紫耀

香川こまち(2019年9月号)

『Komachi』2019.9。女性的にしっかりしたメイクが、アミ・アレクサンドル・マテュッシのおおきな薔薇のセーターと合う。若くて、清潔。セーターの価格は10万円ちょっと。

“岸優太くんにジャンケンなしでおごらせたい”

岸くんは先輩なのにジャンケンで負けないとごちそうしてくれない。しかも、ジャンケンがめちゃくちゃ弱いくせに、なぜか『俺は強い』と思い込んでいるんです(笑)