大漁、異漁。耀

タイトルは タトゥーのようなもの

「天然で済めば僕も可愛いもんだなと。実際は天然じゃ済まないくらいなので。もっと勉強して、知識を増やしたいです」  岸優太

SPUR(シュプール) 2020年 2 月号 [雑誌]

シュプール』2020.2、岸優太。

シンメやカプといった愛でかたに倣うと、岸優太×岸優太というかんじ。だれかといるのもいいけれど、ひとりで立っているところも佳い。ドラマ『お兄ちゃん、ガチャ』の透明感や、Prince期・じぐいわのとなり、というおにいちゃんぽさのせいかもしれない。

かっこいいと思うのは、自分が目指したゴールをものにしている人たち。結果がすべてだと思うので説得力があります。

たとえばレオナルド・ディカプリオ、大好きです。彼の出ている作品は全部面白い。『ブラッド・ダイヤモンド』は特に。『ロミオ&ジュリエット』の無造作ヘアに憧れて、まねしたことあるんですけど、僕直毛なんでだめで。それで最近、パーマをかけ始めました(笑)。

 

アイドルっていろんなチャンスがいただけるけれど、お芝居でも歌でも一本でやってる人たちは本当にすごいと思います。次々新しい人たちが出てくる中で、一本で戦うっていうのは、考えただけでも怖いから。

 

僕は自分に自身が本っ当にないんです。ライブや舞台では、お客さんにそう気づかれないようにしていますけど、内心はいつもドキドキ。だけど頑張ってドヤ顔って感じです。一生懸命ドヤ顔っす。

岸優太は園児みたいな顔をしている。表情のつくりかたが、あどけない。そのあたりはとてもレオナルド・ディカプリオ

バラエティや歌番組でもおもうけれども、からだがしっかりして厚みもあるから、ごつめの靴やジャケットがよく似合う。

〈彼らは二人で笑いあいつつ、ある共通の考えの中で次第次第に結びついていった。つまり、自分たちの性別の破壊という考えだ〉  ラシルド「ムッシュー・ヴィーナス」

特別な友情 :フランスBL小説セレクション (新潮文庫)

シンポジウム「『フランスBL小説セレクション 特別な友情』刊行記念 仏文×BLのただならぬ関係」に行く。

このアンソロジー『特別な友情』は、映画『悲しみの天使』の原作であるロジェ・ペールフィット『特別な友情』の本邦初訳がウリなのだけど、抄訳にとどまっているのは小説としての完成度の低さゆえ。力の抜きどころというものがなくて、書きこみ過ぎているらしい。

ほかはジッド、ランボーコクトーに抄訳の『チボー家の人々』『失われた時を求めて』『泥棒日記』など入門に最適、大学におけるシンポジウムも入場者の顔もういういしかった。

諸作品の合間に紹介された映画は『太陽と月に背いて』『詩人の血』『見出された時』『悲しみの天使』と手に入れるのはむずかしいが鉄板の並び。

そういう初級者向けのイベントに足をはこぶことにしたのは、訳者の一人に芳川泰久がいたから。

昔日、芳川先生の授業を盗み聞きしていた。そのテクスト論は繊細なはずである。にもかかわらず論者にはマチズモが多く、近年には晩節を汚すニュースも。

そのなかで芳川先生はどうされているか。先生には多分にファン気質のところあり、マッチョとは縁遠いとおもうけれども、それにしても、BL──どのように向かい、訳されたのか。

 

結論からいうと懐かしく、また頼もしかった。その語り口は三遊亭円丈みたいだった。森井良、中島万紀子とともにコスプレして登壇した。寄宿学校ふうの赤いリボンに金髪のウィッグ。芳川泰久、やわらかかった。

病気をされたと言う。そして今度のBLとしての訳出。だんだんと自由に、アグレッシブになってきていると。いまも。硬直することなく。

芳川泰久が担当した小説のひとつがプルースト失われた時を求めて』(のなかの「ソドムとゴモラⅠ」(のなかの一部))だが、あやまたずニュアンスを伝えるための自由な訳として原文にない三、四行の創作がある。

BLよりは耽美の傾向がつよい芳川泰久は、登場人物の死から書き起こすような物語性を好みもするので、じぶんの噂を立ち聞きすることになる「ぼく」の胸中に踏みこまざるを得ない。それを挿入した。

巻末の解説は森井良の名によるものだが、プルーストの項、〈「ブルジョワの若僧」とは誰のことなのか、いままでの先行訳ではこの点をはっきりとはさせていません。しかしここは男爵が立ち聞きされているとも知らず、「ぼく」のことを噂している箇所でしょうし、文脈から考えると、それまで蚊帳の外で盗み見ていた無名の語り手が登場人物から不意打ちをくらう瞬間なのです。今回の翻訳では、そういった「言わないけどここはわかってね!」という文脈をあえて訳文に反映させることで、プルーストが仕掛けたトリックの妙を際立たせようと試みました〉と。

 

ラシルド「ムッシュー・ヴィーナス」は生物学的には女性と男性。男性的な女性と女性的な男性の物語である。その名に震える。

男性のほうはジャック(ジャジャ)。女性は、ラウール。

「なんだか、最近のお金持ちは宇宙に行きたがりますもんね(笑)」  松尾スズキ

キレイ 神様と待ち合わせした女[2019/2020]

松尾スズキシアターコクーンの芸術監督に就任し、4度目の再演となるミュージカル『キレイ 神様と待ち合わせした女』。大人計画。初演の2000年から、ばしょはコクーンときまっている。

その歴史、関係性、初演執筆時のポテンシャル、モチベーションなどが旨みとなってくる。

シアターコクーンの大きな財産〉(加藤真親)とパンフレットに。

物語の構造としては孤児、黒幕、双児性、自分自身との対話といったシンプルなもので、書きこまれる叙情は安部公房寺山修司から地続きでもあり、仰天はしない。

こどもの物語だ。それをおとなが観る。さまざまなことどもと引き比べる。そのおもしろさがある。

 

今回、外部からは生田絵梨花神木隆之介小池徹平鈴木杏麻生久美子ら。俳優は皆良かった。岩井秀人村杉蝉之介は所作、声から好ましい。

少年期のハリコナを神木隆之介が、青年になったハリコナを小池徹平が演っている。

生田絵梨花(ケガレ)は 過去をわすれて麻生久美子(ミソギ)に。ハリコナ、ケガレ=ミソギの時間を超えたかさなりかた、またブレは演劇ならではのもの。

神木隆之介はパンレットで「ケガレに一番寄り添っていればいいのかなと。このふたりが理想のカップルに見えるといいですし、それが可愛らしければ可愛らしいほど、青年・ハリコナの言動が本当に残酷に見えてくるので、その悲しさを作るためにも、ハリコナは純粋な気持ちでケガレを見ていたいと思います」──読解力・演技プランがまっとうで、キュンとくる。

生田絵梨花は猫、神木隆之介は犬、という演出があったようだ。シンプルに犬かつ清潔。堪能した。

〈街の空 空の街 空見れど 空見れど〉

少年王者舘アサガオデン 劇場版』観る。

野外で行われたダンスパフォーマンスを、スズナリの劇場に。新たに落語を盛りこんだ。

振付・夕沈、演出・天野天街、音楽・珠水。生演奏・坂本弘道。落語台本・河井克夫

 

呼ばれているのはアリスかとおもったら、蟻だった。いや、アリスでもあるのだろう。穴、落ちる、出会う、時計、水……。

 

野外に根をもつダンスには春夏の匂い。落語のほうは、秋冬のけはい。後半部にドッカと坐る落語「蟻丁稚」に合わせてせかいは調整されたのだろう。唐突に幕は開き、目ざめた幼女、あるいは蟻がみつける「あ、キリギリス」。かの女たちに囲まれキリギリスと呼ばれたのはチェロ。そこに坂本弘道が入ってくる。音楽がはじまる。

 

エフェクターを駆使したチェロ、落語パート、王者舘テイストそれぞれが楽しみ、謳いあげていて、良かった。

出演は夕沈、中村榮美子、山本亜手子、雪港。

 

ロビーでは『平太郎化物日記』の上演台本(北冬書房)を売っていた。これで天野天街の手書きの台本とスケッチを堪能できる。買って帰る。

「寺の符牒は噺家が考えたんじゃねえか?」  蒟蒻問答

『スペース・ゼロB1寄席』行く。出演は春風亭一猿、神田すず、三遊亭わん丈。

春風亭一猿のマクラで聴いた都電落語会の話に胸詰まる。

都電落語会の運営は林家こん平事務所によるもので、車内のことゆえ楽屋なく、演者のすぐそばに林家こん平師匠がいる。若手の噺を聴きながらずっとにこにこしてる由。

こん平師は闘病中の身だけれど、落語の世界や後進が愛しくてならない。そういう無上の慈しみを浴びる若手の恐懼と特権が羨ましい。

 

一猿が演ったのは「蒟蒻(こんにゃく)問答」。寺の住職となったやくざ者が、兄貴分と謀って旅の僧を追い払う。その物語にわくわくさせつつ、細部で笑わせるのがむずかしい。

落語はぜんたいに、あってもなくてもいいようなくすぐりが多い。余さずみっちり演っていくと、細密画じみてきて、聴くのに骨が折れる。笑わせるにもメリハリが要る。そのあたりが春風亭一猿の更なる課題だろうか。

「蒟蒻問答」にはふしぎな魅力がある。かんたんにいうとBLの匂いだ。親分・六兵衛の俠気や、墓守の権助にある忠義心。それらを呼びこむのは、にわか坊主八五郎のアマエだ。

 

次なる神田すず「お富与三郎 仕置き」にも親分子分がでてくる。赤間源左衛門と松五郎。源左衛門に囲われるお富と与三郎の関係を密告するのは松五郎だ。ホモソーシャルやらミソジニーやら。血湧き肉躍る講談のなかの人物たちは妙に現代的で、複雑で。

神田すずの声が佳い。まだまだなぞっているだけのようなところもあるけれど、お富のなんともいえぬ女性(にょしょう)の色気。

 

そして三遊亭わん丈も良かった。話は“初めて関ヶ原を渡ったのではないか”という上方のネタ。「矢橋船」。長編「東の旅」より。

わん丈は滋賀県出身だから関西弁も小気味良く、しゃべくりだけの噺でも楽しませてしまう。

わん丈の新作落語にも触れてみたい。

〈迷うた道でそのまま泊る〉

大駱駝艦 天賦典式『のたれ○』観る。

集団で踊る。ソロとちがったユーモアが生まれる。『のたれ○』は種田山頭火の生涯を追った。

開演時間になると、客席通路に行乞の山頭火が現れた。それも五人。経を唱え、観客に銭をねだる。あちらこちらで。山頭火の厚かましさ、不気味さ、可笑しさを間近に見る。舞台がはじまる。かれ(ら)の幼少期、母の死。

死の瞬間をストップモーションにすることで、家族の悲喜こもごもが誇張される。ここも笑えるばめんだ。

山頭火は、傷を抱えて生きた。忘却したり無反省になったりできなかった。その態度が、喜劇的なのである。種田山頭火のマゾヒスティックな甘えは、突き放されているようにみえた。舞台で逆さに吊られもする。それを、山頭火の心身に巣食う歌詠みたちに小突かれる。

舞台に登場する歌詠みたちは菅原道真西行源実朝松尾芭蕉

東風吹かば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ

 

出でいなば主なき宿となりぬとも軒端の梅よ春を忘るな

和歌や俳句の引用もあって、舞踏としては台詞が多かったかもしれない。ばめんも素直だった。売春宿や、亡き母と弟や、(現代の?)働く女性たちなど。

山頭火が知っている戦争は日中戦争だった。それは新聞記事、出征、経済状況によってわかることだから、きな臭い寂しさが募るのみだ。さいごのばめんに降るものは塵埃か、雪か、日記の灰か。

それを拾いあげると、自由律の俳句である。舞踏家たちが声にする。演出は、直球だった。『のたれ○』の「○」は珠でもあったようなのだ。

「眩しいなあ。夏の青い空がワチには眩しい」

『相対的浮世絵』観る。脚本・土田英生。初演は2004年。

2010年に再演。そして今回の2019年。

中年期を迎えた同窓の男二人のもとに、高校時代に亡くした旧友と、弟が現れるようになる。おばけとか幽霊というふうに呼ばれるのはいやがるが、どうやらそういうものである。

 

山本亮太(宇宙Six)、伊礼彼方、石田明NON STYLE)、玉置玲央、山西淳とおせちのように豪華なキャスティング──ジャニーズ、ミュージカル、お笑い、小劇場(中堅、ベテラン)と、とりどりのジャンルからやってきたメンツを「同級生4人とその弟」として演出の青木豪がみごとにまとめた。

舞台には、能のけはいもある。そのうえで、そこを外してくる可笑しさもある。

死者のところから舞いもどってきた、けれどもじぶんたちのありようがよくわからないふわふわした立場を演じたのが山本亮太と玉置玲央だ。明るく、善意でいっぱいで、そこが浮世の伊礼彼方と石田明には不可解だし、突き刺さる部分でもある。生きている者として罪と罰を意識すれば、これまでとちがった行動をとることもあろう。

突飛と、緊張感と、収斂。ひと息にみせる舞台だった。脚本も、俳優もよかった。

標準語とは一寸ずれた架空の方言で会話される。そのために、台詞の上ッ面をなぞる嘘くささがなくなる。リアリティの獲得。山本亮太を初めて観たけど、とても自然にこなしていた。

パンフレットを読むと、山本亮太明晰。しっかりしている。

僕は十八年の間、ジャニーズの舞台作品にたくさん出演させていただきましたが、外部舞台に役者として出演させていただくようになったのはここ二年くらいなんです。それ以前の本番ではお客様に向けてどう芝居をしていくか、稽古では演出家の方に見ていただいて、どう直していただくかに集中することが多かった。だから自然と、体が正面を向いていることが多かったんですね。でもこうした作品は、ときにはお客様に背を向けるくらいの感覚でやらないと成立しない気がして。

実際、客席に背を向ける場面が幾度もある。ここは演出家だろうか、役者の発案だろうかと観るのも刺激的だった。

山本が「少人数で濃密な舞台をやるという機会は今後も限られると思うので、そこも楽しんでいただきたい」と語っているのが印象にのこる。

 

執筆中でなく、すでに完成している戯曲だからパンフレットもおもしろい。俳優陣が読みこんできている。

伊礼彼方は「『このままではいかん』と遠山や達朗が来たのか、あるいは智朗や関が呼び出したのか……。時には遠山や達朗が、智朗が内面から生み出した存在のように思える瞬間もあって」。「リアルな兄弟でいながら、存在する次元の違いが起こすノッキングをどう表現しようか」と。

伊礼が演じる智朗と、石田明の関には共通するだらしなさがあるのだが、そこにもちがいがあり、石田はハッキリと区分している。「これは十五年前に初演された作品ですが、初演時には関の問題もすんなり見られていたと思うんです。でも今はちょっと『ん?』となる人も多いかもしれません。ただ、実際にそういう人はいるわけだし、ここを単にオモシロのような感じでやってしまってはあかんなと思うんですよね」。

「関たちが通っていた高校は男子校ではないですけど、ノリとして男子校の雰囲気ですよね。こういう集団で過ごした日々は色褪せないじゃないですか」

関の台詞に「この年齢になるとそうそう心を割って話せるような友人は新しく作れんでなあ。しかし人間誰しも心を許せる人間は必要だわ。するとどうなる? 頼りになるのはやっぱり昔からの知り合いだという結論だわなあ」という言葉がありますけど、まさしくそうで。

 

ある程度の年齢になって家庭があると、物事をフラットに眺めながら、上がれるところは上がる、下がるところは下がるという考え方になってくるじゃないですか。それがすごくこの物語ともぴったりだなって。

 

野村役の山西淳。「智朗や関は、壁を乗り越えようとせずに逃げることで引き返せなくなって悩む。でも、野村には先がないから悩む必要もないし、あの中で異質な存在だからなのか、とても客観的なんですよね。

ただ、野村の視点から智朗や関を見ると、悩めることを素晴らしいとも感じるんですよ」