大漁、異漁。耀

タイトルは タトゥーのようなもの

〈オレは何か忘れていた昔のことを思いだすように、耳の痛みに気がついた〉

桜の森の満開の下・白痴 他十二篇 (岩波文庫) 夜長姫と耳男 坂口安吾「夜長姫と耳男」。冒頭、もう凄い。

オレの親方はヒダ随一の名人とうたわれたタクミであったが、夜長の長者に招かれたのは、老病で死期の近づいた時だった。親方は身代りにオレをスイセンして、
「これはまだ二十の若者だが、小さいガキのころからオレの膝元に育ち、特に仕込んだわけでもないが、オレが工夫の骨法は大過なく会得している奴です。五十年仕込んでも、ダメな奴はダメのものさ。青笠や古釜にくらべると巧者ではないかも知れぬが、力のこもった仕事をしますよ。宮を造ればツギ手や仕口にオレも気附かぬ工夫を編みだしたこともあるし、仏像を刻めば、、これが小僧の作かと訝かしく思われるほど深いイノチを現します。オレが病気のために余儀なく此奴を代理に差出すわけではなくて、青笠や古釜と技を競って劣るまいとオレが見込んで差出すものと心得て下さるように」
きいていてオレが呆れてただ目をまるくせずにいられなかったほどの過分の言葉であった。

説明せずに、走りだす。笑えるほどの目まぐるしさを古代と呼ぶのか現代と呼ぶのかよくわからない。次の行には〈オレはそれまで親方にほめられたことは一度もなかった。もっとも、誰をほめたこともない親方ではあったが、〉とある。前段を反転しながら、しかし逆走することなく、どんどん進む。回想、逆走することが散文なのかもしれないが、だらだらした遅滞は不要だろう。
夜長にはヒメがいる。語り手はその心理に入っていかない。そのことが殊更に神秘なのだろうか。立ち入らぬことこそ小説なのだとかんがえたくなる。とにかく速度がでるわけだから。
ヒメ以外にも異性がいる。たとえばエナコ。まなざしを交わすことは言葉よりも行為に似ている。

エナコはオレの視線に気がついた。次第にエナコの顔色が変った。オレはシマッタと思ったが、エナコの目に憎しみの火がもえたつのを見て、オレもにわかに憎しみにもえた。オレとエナコは全てを忘れ、ただ憎しみをこめて睨み合った。

このばめんにいろいろなことをおもう。そのどれもこれもをわすれていきそうになる。そのまえに、「夜長姫と耳男」の末尾ちかくの有名な、ヒメのコトバを引く。

好きなものは咒(のろ)うか争うかしなければならないのよ。お前のミロクがダメなのもそのせいだし、お前のバケモノがすばらしいのもそのためなのよ。

「お日さまが、うらやましい。日本中の野でも里でも町でも、こんな風に死ぬ人をみんな見ていらッしゃるのね」