大漁、異漁。耀

タイトルは タトゥーのようなもの

松尾芭蕉と温泉

奥の細道温泉紀行(小学館文庫)

嵐山光三郎奥の細道温泉紀行』。テレビ番組で「奥の細道」自転車走破を企んだり、月刊『太陽』で「温泉・奥の細道」を取材したり。それらを再構成したかたちで、この本がある。

芭蕉は旅の魔術師である。(……)これは、旅をドラマに化けさせるマジシャンの仕掛けである〉 

奥の細道」は、四六歳になった芭蕉が命を捨てるつもりで出発した旅であった。出発した元禄二(一六八九)年は西行五〇〇年忌にあたる。芭蕉は、西行の旅を追体験するために「奥の細道」の旅に出た。全行程二四〇〇キロ、一六〇日間にわたる長旅であった。

 

奥の細道」を旅する人は岩波文庫版を持っていくことをすすめる。文庫には『曾良旅日記』が付されているからである。本編と旅日記をあわせ読むことで、旅の実情がわかり、芭蕉がどこをフィクションにしたかが見えてくる。旅というものは幻視と実像のからみあいである。歩くことじたいは現実であり、躰は前へ進みつつ思いは昔へ昔へと戻っていく。肉体と精神はねじ花のように寄り添うのだ。

 

景観は外面でありつつ耳目は内面におかれている。しかも、見切る。見切るとは、目に入ったものをスパッと斬りとることである。景観を断言するのである。

もちろん挨拶句も多い。〈芭蕉は挨拶句の達人であって、それは『奥の細道』にふんだんに出てくる。挨拶句は下手をすると下品になるもので、相手に感謝する気分をさらりと詠むところに極意がある〉

 

〈七月二十七日、芭蕉山中温泉に到着した。

「温泉(いでゆ)に浴す。其(その)功(こう)有明(馬)に次(つぐ)と云(いふ)」

とほめたたえ、

  山中や菊はたおらぬ湯の匂

と詠んだ〉

芭蕉衆道の気がある〉

〈泊まった宿屋は泉屋といい、主人は久米之助といって十四歳であった。芭蕉は泉屋に九日間泊まり、久米之助に桃妖(とうよう)という俳号を与えている。尋常の扱いではない。若き日の芭蕉は桃青と号していた。芭蕉が桃の字を与えたのは実子同様の甥に桃印とつけたのがそうで、これは、芭蕉の身内を意味する〉

芭蕉のもうひとりの恋人は、「笈の小文」の旅に同行した杜国(とこく)こと万菊丸である〉

 

八章立てで、それぞれに「奥の細道ガイド」「奥の細道温泉」 というコラムがつく。巻末には座談会(嵐山光三郎×坂崎重盛×関正和)に、「『奥の細道』全文」もある。