大漁、異漁。耀

タイトルは タトゥーのようなもの

ミ・エスタス・インファーノ……(私は子どもである……)

イーハトーボの劇列車

舞台のチケットと縁なく、ときに主演の松田龍平を想いながら読む。松田龍平宮沢賢治というのは大胆なイケメン化のようにもおもうけど、茫洋としたかなしみはあんがいぴたりと合ったのかもしれない。

井上ひさし『イーハトーボの劇列車』。前口上に、こうある。〈科学も宗教も労働も芸能もみんな大切なもの。けれどもそれらを、それぞれが手分けして受け持つのではなんにもならない。一人がこの四者を、自分という小宇宙のなかで競い合わせることが重要だ。(……)あらゆる意味で、できるだけ自給自足せよ。それが成ってはじめて、他と共生できるのだよ〉──宮沢賢治を俯瞰すれば、そういうことになるのだけれど、この物語は、成長や達成にあるのではない。宮沢賢治が、年長者や世間に勝てないでいる。挫折を経て、べつの道に行く。それでもカタルシスがあるのは幻想性のためで、はじめに「ほんとうにもう、どうしてもこんなことがあるようでしかたがないということを、村から、この世から旅立つ最後の仕事として、こうして劇に仕組んだまでです」と農民たちが科白する。

「これからのおはなしはみんな、長い旅のあいだのビスケットになるでしょう」

 

山男「はで、急行つうど?」

賢治「駅ば端折(はしょ)るわげです。飛ばすわげです。どんどん抜がすわげです」

山男「上野駅も抜がすんだべが」

賢治「上野駅は抜がすわげには行きません、終点だがら」

おおむね、舞台は列車のなか。賢治はなんども上京する。

おれさは他人を相手にして生きて行(え)ぐ才能がねえのっす。自分を相手にする仕事、そこさしか活路はねえと思って居(え)るす。

 

何としても、もはや家ば出るより仕方ない。明日にしようか明後日にしようか。おれ、ついさっきまで店番して火鉢さ当りながら、そう思案して居(え)だたのす。

そして「法華経」、「エスペラント」、「農民芸術」、「組合」と中央集権に抗うような模索がはじまるのだけれども、敵視するのは東京ではない。実父、家業といった目のまえのものだ。

刑事との対話のばめんはくるしい。刑事が言う。

エスペラントで世界中の百姓と話コするだと? ハッ、だ。同じ町さ居(え)る地主様さ、「生き死にの瀬戸際でやんす、借金返すのあと十日待ってください」と、言いたくても言えねえでじっと唇ば噛んでる百姓が、どげなことすれば世界中の百姓さ話しかけられるづのだ。汝(う)なあ、ばがのばが、ばがの行き止りよ。

 

あんたがただの水呑百姓の倅(せがれ)なら、労働農民党の事務所の保証人というだけでとうの昔に捕まっていましたぜ。捕まえる理由なぞ、六法全書をひっくり返せばいくらでもありますからな。だが、町会議員、学務委員、そしてこの十一月三日明治節には町政の功労者として高松宮殿下から表彰されなすった宮沢政次郎さんの御長男ともなればそうはいかん。

 

そこから時は流れる。

〈デクノボーのおれは、だから日蓮のデクノボーたる部分に惹かれたのだと思います。おれは獅子のように吠え立てる日蓮は、あんまり好きではない〉

劇中に幾度もでてくる「思い残し切符」もきちんと回収し、受け手に託される。

かなり前向きなラストで、幻想的な味つけが必要だったと、判る。