大漁、異漁。耀

タイトルは タトゥーのようなもの

情炎の相聞歌

おしゃれ紳士×梅棒『The Story ベランダカラミルモガタリ』観る。そのあと花園神社で唐組『ビニールの城』を。

 

『ベランダカラミルモガタリ』。おしゃれ紳士からは西川康太郎、池田遼、井内勇希、伊藤祐輔。

梅棒からは伊藤今人、遠山晶司、遠藤誠、櫻井竜彦、天野一輝。

さらに鈴木ハルニ、細川貴司、菊地浩輔、野間理孔、山崎丸光、いっとん。

上裸にネクタイと帽子というおしゃれ紳士のスタイルに、明快な歌詞のJ-POPで踊る梅棒の身体性が物語るのは、夜勤明けに自室のベランダでタバコをふかすアラサーの役者。

正社員のガールフレンドがいる。すれちがいの生活だ。それでもガールフレンドは「俺」を信じてくれている。

そんな「俺」の許に、ミカエルが現れる。地球の命運が「俺」に託された。

 

ミカエルや、ルシファーや、特異点宮本武蔵ジャンヌ・ダルクレオナルド・ダ・ヴィンチが味方につく。

ベランダからはじまる「俺」=篠原ケンジのアドベンチャーとアポカリプスは、中二病と呼べるようなもの。固有名詞の陳腐なパッチワークだから一寸現実とはおもえないが、ではほんとうに益体もない夢なのだろうか?

「俺」と固有名詞との戯れが導くのは「自分語り」だ。いま、劇場はこの「自分語り」から逃れられない。コロナ禍にあえぐ「自分」を語らずにはいられない。ゾンビや、ギーガー的エイリアンや物体Xを想起させるダンスもいまの状況なのだろう。

伊藤今人、野間理孔、いっとん、山崎丸光が印象にのこる。

 

 

 

そして池袋から新宿に移動。先日、花園神社の入口で『ビニールの城』の看板を見た。隅に書き足された「電話ください」の一言が、つよく訴えかけてきた。予定を合わせた。

前説は座長代行の久保井研。なんだかぼそぼそと、生真面目なことを言っている。これが罠だった。劇中いちばんの怪演が久保井研だった。

『ベランダカラミルモガタリ』にも前説があった。やはり遅効性の、企みのあるものだったけれど、〈信じてほしい〉と科白するほどには「俺」は「観客」を「信じていなかった」かもしれない。

 

おどろきがあれば、ひとは目のまえのことを信じる。

唐組の舞台はおどろきの連続だった。その戯曲は詩のようで、ト書にはムチャなことばかり。うごくはずのないものがうごく。できなさそうなことが、できてしまう。大変なのは俳優たちだ。

初演は1985年。〈デリダ〉とか〈ポストモダン〉なんて単語がでてくる。劇団第七病棟のために書かれた男と女の恋物語。憶病な男と、城。どこか『華麗なるギャツビー』のようでもある。

男は腹話術師で名を朝顔という。人形はユウちゃん。夕顔である。

男に恋情を打ち明ける女はビニ本のモデルをしている。モモと名乗る。

両人ともフィクションに縁ある仕事だが男はその虚構にのめりこんでおり、女はつよく現実を欲していた。

腹話術師の朝顔は頑なにウブ。少年性というのか、原理原則から離れようとしないが、世界は幾重にも捩じれていて、モモは腹話術の人形とおなじ愛称をもつユウちゃんという人物と結婚する。ユウちゃんはユウちゃんでモモの望む人形になろうとする。『ピグマリオン』や『人形の家』の変奏でもある。

 

『ビニールの城』は身分差、貴賤を問題にしなかった。朝顔とモモは虚構性をめぐって悶えた。

コロナがなくてもひとはウラミツラミのなかにある。苦しみは偏在している。だから愛をもとめるし、愛がまた憎しみを呼びこむ。

愛憎に特権的ななにかをあたえるのがこうした芝居かもしれない。

出演は久保井研、稲荷卓央、藤井由紀、福原由加里など。