大漁、異漁。耀

タイトルは タトゥーのようなもの

訓練すればするほど、言葉はかってにうごく

ベットと織機 魂にふれる 大震災と、生きている死者
日本近代文学館「声のライブラリー ─自作朗読と座談会─」行く。司会が伊藤比呂美で、先ずそれを目当てに。保険というか。そして伊藤比呂美がえらんだ朗読者ならばまちがいあるまいという期待。
行こうとおもっていて、だけどあれやこれやと落ち着かず、忙(せわ)しく、倒れていたかった。それでもカラダとココロが引っぱられて、行った。


朗読する「詩人」は新井高子と若松英輔。コトバの限界、殻を破る、更新する。詩人の言葉とはそういうものだと伊藤比呂美が話をはじめる。新井高子はまさにそういう詩人。おおきな機織工場の娘として育ち、上州弁が堪能なわけではないが詩の語りとして架空の上州弁をとりいれる。
それは新井高子のあたまのなかのことばだからほんとうは朗読できない。そのことについて伊藤比呂美が「よく朗読しようとおもったよね」、まだ単行本化されていない「足たぢ」を読んだことについて。
新井高子としては、いちばん新しいもの、手こずっているもの、うごめいているものを届けるべきであるともかんがえたのだったろう。過去に或る詩人の朗読会に行ったという。今回同様、3.11の震災をテーマにした朗読会だ。そのとき客席からリクエストがあった。「震災の詩のあとに書かれた、最近のものを聴きたいです」と。
言葉を欲するということ。若松英輔が言った。「一日食事を抜いても生きていけるが、言葉が一日欠乏したら、生きていけない」
震災のとき、言葉に飢えた。若松は古い言葉を欲した。和歌や、リルケ
「昔の人もおなじように悲しんだことを知る」
若松英輔の仕事は散文であり批評である。伊藤比呂美は初め「詩」として読んだ。「なんでこんなに美しいのか」
かたや、新井高子の詩は「笑える」。詩人と名のるからにはぬけぬけと美しいなんてことあっちゃいけないのだ。


新井高子が朗読したのは『ベットと織機』から「フレアスカート」、「ガラパゴス」。それと詩誌『ミて』128号に掲載されている「足たぢ」。
若松英輔が朗読したのは『魂にふれる 大震災と、生きている死者』から「悲愛の扉を開く」。


新井高子「ガラパゴス」は、こんな具合にはじまる。

茶飲みばなしだろ!、景気って
お伽ばなしだよ!、株相場は
やらかしてよ、
  もっと、揶揄化してよ
うんざりだね
黒づくし、ユニクロづくしは


台なしだよ!、エロスが
出しっぱなしだろ!、タナトス
いかしてよ、
  もっと、異化してよ
ケータイの 引っきりなし、
マイクロソフトの 人でなしに