大漁、異漁。耀

タイトルは タトゥーのようなもの

〈落語は、人間の業を肯定する〉  立川談志『あなたも落語家になれる──現代落語論 其二』

映画 立川談志 ディレクターズ・カット 【DVD】
「さいしょの『業の肯定』てのは親孝行に対する親不孝みたいなものだったんですが、そうじゃなくてイリュージョンの肯定っていうふうに、今は。言ってることはおなじだから、言い逃れはできますから」
『映画 立川談志』。書籍からの引用、過去映像など。
聴くことができるのは「やかん」「落語チャンチャカチャン」、そして「芝浜」。


「つねに『常識への応援だけはしたくない』と思っていて、それらの落語は避けていた。ま、それらの作品の中にもフレーズとして『非常識』という人間本来の姿ァさらけ出したのも多くあるけれど。だから昔から演じられている『芝浜』は嫌いだったし、あの女房に至っては、落語家として語るに落ちた奴であった。でもまあ、百歩譲ってどんな作品でも一つの世界に観客ともども入り、そこに共通の楽しみがあれば、とりあえず良しとしたものの、やはり嫌なものは嫌だ。で、これらの作品との葛藤が四十年以上なわけだ。『芝浜』、一口に言うとその葛藤の妥協作品ともいえる」

寄席という、独特の空間で、昔からある作品を江戸っ子の了見で演る。己のギャグ、自我、反社会的なこと、それらを江戸の風の中で演じる。
非常に抽象的だが、そうとしか言えまい。「江戸」という“風”“匂い”の中で演じるということだ。


立川談志は人情話を嫌った。にもかかわらず上手かった。人物の描写が巧みということ。個個の内面をみつめるからこそ、オートマティックに大団円へとながれていく人情物が厭だったのだろう、細部をいじった。
立川談志は肯定的に「噺」という語を用い、口から出るだけの「咄」と区別した。