大漁、異漁。耀

タイトルは タトゥーのようなもの

「世界が変わるって、期待したのに」

わたし出すわ [DVD]
「かれら(アインシュタインやノーベル)が生てきた時代と今は違うよ。だって、おれが何か実験したって世界中でニュースになる時代なんだぜ」
「こういう時代だから、わたしの仕事もあるんだけど」
「こわいものに片棒担いでいられるのも、そう長くはないぜ」
「わかってるわよ。だからこうして、リセットしてるんじゃない」
「リセットか……。おれはシャットダウンだ」


わたし出すわ』(2009)。オスカー・ワイルドの『幸福な王子』のような贈与、喜捨の感覚。やさしさ。あるいはサン=テグジュペリの『星の王子さま』の無垢と悲嘆。
落語だったら『文七元結』とか。せっかく手に入れた五十両を赤の他人にやってしまう。そういう、損得抜きの行ないを意気に感ずるかどうか。
じぶんのことだけかんがえて我利我利亡者な生活してればやさしさなんてばかげたもので、そこに付け入ることはあっても贈与で応えることはあるまい。我利我利と一人称を追求していった先にハッピーエンドというものはないから(一人称にはエンディングがない)、伝え聞くしあわせはぜんぶおとぎ話だ。
幸福な王子―ワイルド童話全集 (新潮文庫) 星の王子さま (岩波文庫) シラノ・ド・ベルジュラック (岩波文庫)


落語には《業の肯定》もある。だから『黄金餅』みたいなしあわせもある。溜めこんだにんげんからすべて奪う心地好さ。
森田芳光監督の映画では、おとこがピュアでおばかさんなのは当たり前のことなので女性に「わたし出すわ」と演らせたのだろう。


「摩耶、おまえもう東京帰れよ。この町には極端過ぎる」