大漁、異漁。耀

タイトルは タトゥーのようなもの

〈男は何故こんなに女を苦しめるのか〉

愛に生きる―旧約聖書の女たち (光文社文庫)
田中澄江愛に生きる―旧約聖書の女たち (光文社文庫)』、「あとがき」に。

子供の頃から、私は、親戚や知り合いのおじさん、おばさんから、昔の話を聞くのが好きであった。
今はこんな風に生きているけれど、昔のひとはどんな生き方をしていたのかしらとよく思った。
家が中仙道の宿場町のまんなかにあって、家々にも、徳川時代そのままの面かげが残り、年とったひとびとの話の中では、もう歌舞伎や映画の世界でしか見られないちょんまげのさむらいたちや町人たちの姿が、昔さながらに自由に活躍した。
おもしろいのは、外見のかたちは変わっても、ひとの心は今の自分たちとあまり変わらないのだという発見であった。

1908年に生まれた田中澄江が聖書の世界を語るときに、古事記や、平安期の文学、徳川時代など日本の神話・歴史がたくさんでてくる。素養と、知的好奇心がある。
そこから女性の問題、信仰の問題へと進んでいくが、イデオロギーというよりももっと文学的なもののようだ。
〈若い時から今も、私はモーパッサンの「女の一生」やシュニツラーの「女の一生」を興味深く読みかえす〉
〈作品を生み出すひとは、鋭くその時代が要求するものをとらえる。モーパッサンは「女の一生」の中で、次の時代に夢を賭けたいというひとびとの願いをこめたのだと思う〉
聖書は輪廻転生を説かない。《復活》はあるが生は一度きりのものである。
そのなかで自身の救いをもとめたり、また次代に託そうとねがったりする。
《不幸》をどこに見、いかにあつかうかということ。

私は少しつむじが曲がっているのか、ダヴィドのような強く賢い人よりも、より多くサウルのような弱い人間に惹かれる。そしてつねに神からの恵みを受けられるダヴィドよりは、神に見捨てられたサウルにより多く魅力を感じる。


サウルの子ヨナタンダヴィドの友愛について紙幅を割いているのがおもしろい。
《さて、ダヴィドがサウルに話しおえるまでには、すでにヨナタンの魂は、ダヴィドのそれと固く結びついてしまったので、ヨナタンは、かれを、自分とおなじほど激しく愛するようになっていた》  (「サムエルの書」上、第十八章)

サウルの息子ヨナタンは、ダヴィドがまだ、父の小姓であるときから、その風貌、その勇武にして謙遜な人柄をひどく愛した。青年ダヴィドが父のサウルの前にフィリステ(ペリシテ)人と戦って勝利を得たという挨拶をしているかたわらで、自分の魂がすっかりダヴィドの魅力のとりこになっていることを知った。
ヨナタンは、自分のまとっていたマントを脱いでダヴィドに与え、衣服や剣や弓や帯をもおくった。


(……)


ダヴィドに対するヨナタンの男の友情は、陰惨な話の多い旧約聖書の中で、清冽な泉が湧き出ているように美しい。

一寸筆圧が高い。


旧約は裏切り、復讐、姦淫その他陰惨な誘惑に事欠かない。
〈私たちもふだん一生けんめいに生きようとして、これはいけない、というものがあるとき、それではそこを通らないために、この道を行かないために、ではどういう道を通ってゆくか。それをしないために自分自身をどう変えていったらいいか。いろいろな自分の生き方、自分のいのちの発揚のしかたを考える。これが生甲斐というのではないかと思う〉