1984年から1986年にかけて連載された「はずれ者の旧約聖書」が文庫となって『私の旧約聖書 (中公文庫)』。
色川武大の、丸腰で挑むような文章がスリリングなときと、もの足りないときと。
この書きかたには真剣勝負の怖さがあると用心しつつ。
どんな戦争でも最も肝要なところは前哨戦なんです。二十一対十九に、つまりとにかく一点とればいいんです。いろんなプロセスがあるからそう単純ではないけれども、基本としてはそうなんです。
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得点が入らなくてもいいからエラーをしちゃあいけない。体を預けていれば二十二対十八になっていくわけです。
一手の違いが、実はすべてなんで、だから五分に見えても、そこでは戦えないんです。一応も二応も消極的になって、相手がエラーするか、風が変わるのを待つわけですね。こちらが戦うのは、たった一点でも有利になっているときに限るので、そこの認識がいちばん大切なんです。
〈巷の不良男が、なぜか、たまには自分よりもずっと大きいものに喰いさがって、まァ、ぶつかり稽古の稽古台になってもらおう、と思いたったのであります〉
〈私は、西遊記の中に登場する、自分の個性だけで方々に跋扈している化け物のようなものなのでしょうね〉
〈遊び人の修羅場なんてたかのしれたもので、無数にある現実の一つにすぎません〉
小説論と人生論がないまぜになった辺りがめっぽう面白い。
モノローグだけしかできない男なんて、つくづく半端だと思います。というのは、神以外にも自分より大きい存在などたくさんありまして、たとえば時間、たとえば死、たとえば、社会なんかもそうですね。
若いうちは、能力というと、極め球の威力のことのように思っていました。
むろんそうでもあるのですが、しかし、それ以上に、能力というものはオールラウンドに通用する、拡がっている性質のものでもあるのですね。ですから、ここが自分の能力だと思ったら、それと同時に、その能力の塊を、できるだけオールラウンドな性質のものにする努力が必要なんです。
“出エジプト記”に記されている物語は、移動というテーマであると同時に、そのために何を失っていったか、という物語に必然的になってしまうわけですね。そうでなければリアリティが生じません。何を得たか、というだけでは、恣意的にその面だけを記したということになってしまいます。
〈ヤコブの狡猾さなどというものは、生存競争の烈しい砂漠での、当然の能力なのですね。なぜ、能力として評価されるかというと、人間社会の葛藤の段階だからです。人間が人間を裏切るな、などという契約はまったくしておりませんから〉
発展の末に、死が来ます。死ということでいえば、人間はエラーをして死ぬのじゃないんですね。生きようとし、また生きていくことで、死に至るんです。
〈イェホバ氏が要求していることと、人々が望んでいることは、やっぱり少しちがうのですね。イェホバ氏のは、律。人々の望みは、生〉
〈自殺する人もすくないし、エラーで死ぬ人もすくない。ほとんどの人は、エラーが原因で破滅したのではなくて、進化、乃至進行したために破滅するのですね〉
人は獣にまさる所なし皆空なり