大漁、異漁。耀

タイトルは タトゥーのようなもの

「あの子は、おしまいの気分が好きだった」

少年王者舘『1001』観る。作・演出、天野天街

新国立劇場・演劇芸術監督となった小川絵梨子が招聘した。1978年生まれの小川絵梨子が、1960年に生まれ、1982年に少年王者舘を旗揚げした天野天街を呼びこみ、これまでとはちがった客層に触れさせる……。

 

『1001(いち・ぜろ・ぜろ・いち)』は、タイトルに先ず『千夜一夜物語』を、さらには澄んだ無限の郷愁が稲垣足穂一千一秒物語』をおもう。いくつものばめん。ことばあそび。

さいしょの印象的な台詞は「手も足も、散り散りになっても」。すこしずつ状況を変えながらばめんを反復させるので、台詞もこまかな調整がほどこされて「手も足も、バラバラになっても」と。こちらのほうが具体的で尋常な、現代に通ずる日本語だ。

「バラバラ」と「散り散り」がそれぞれべつのことばを引きずりだすために使い分けられるのだけど、事物を観念へとずらす神話のような美化作用もつ「生命」の「散り散り」は、不穏であり悲痛だった。『1001』がえがく少年(≒幼年≒青年)の夏の日は《戦争》だった。

劇中──少年王者舘らしくもなく──反戦のメッセージがつよくなる。しかしそれは「反日」が「半日(…半分、日常)」と台詞で言い換えられたのと同様、「半分、戦争」という認識の提示だったろう。だからこそ、つい声がおおきくなったのだろうし、物故者たちを招くことともなった。三島由紀夫寺山修司、松本雄吉などの。

「英霊」や「祖国」は普通名詞のようでいて、文学的にはミシマやテラヤマの色が濃いことばだ。天野天街はせかいをふんわりとかたちづくるべくそうとう腐心しているだろうから、それらをけっして深追いしない。なにかが記述されているようで、観客のあたまのなかにしかないという寸法。

はっきりと二進法を謳ってもいる。「ある」と「ない」。「ある」ようで「ない」。「ない」かもしれないが「ある」。

本(…書物)の本分は見えぬが花。

出征が、家出や冒険とかさなる。時間を行き来する。やりなおすこともできるが、それでもぜんぶ喪失へとつながっていくのだろう。

 

死者の物語だった。いち(0)(夕沈)、一郎(1)(池田遼)、零(現人)(井村昂)、ゼロ(銀河)寺十吾)にその自覚はない。欲動の如きものだけはあるから、冒頭で一郎メフィストフェレスの如き山ン本(Alah)(月宵水)にねがいごとを言ってごらんとつけこまれる。役名のほとんどはプログラムに載っているキャスト表で確認するのみだが、この山ン本(さんもと)、どうしたって稲垣足穂「山ン本五郎左衛門只今退散仕る」を連想させる。

ランプの精として神ン野(jinn)(珠水)が登場するが、魔法ではなく「阿呆」のランプ。もっと魔神らしい面貌でなくてはと、賑賑しい描写をされる辺りは『古事記』。

 

『1001』は、やわらかかった。1は直線、0は円と見ることもできるが、線を引いて、対立する、乗り越えることをえらばずに、ただただつなげて、ふえていった。そのことにおどろいた。台詞としては「次回はきみと友だちになれるといいな」とか「まだ細胞分裂をする気があるのか、お前?」とか。細胞は、円い。

 

科白されたことばあそびを丹念に辿れば台本を復元できそうだ。どんなことを言っていただろう? 「なんて言っているのかなあ?」とあいてをふしぎがるばめんもあった。ヒラメだったかな。カレイだったかな。ラクダもバクもでてきたな。砂漠だもの。海の底だったのだろうか。夜は。