大漁、異漁。耀

タイトルは タトゥーのようなもの

「大学を引退して何年にもなるし、思い残すことは虫のことだけ。それなら、まだ体が動くうちにウィーンに行っておくか」  養老孟司

 

身体巡礼―ドイツ・オーストリア・チェコ編―(新潮文庫)

 「どこにも書いていないから、自分でやるしかない。学問とは、そういうものだろう」

 

養老孟司『身体巡礼─ドイツ・オーストリアチェコ編─』。中欧の墓をたずねる旅。

養老が若いころから関心をもっていたのは、ハプスブルク家の心臓埋葬。心臓と、その他の臓器。そして身体。それぞれが異なるところに埋葬される。そのことと〈心身を二分するデカルト式二元論〉がこの旅の思考の根となる。もちろん〈ハプスブルク家の埋葬が心身二元論に関係するかというなら、まったく違うはずである。以前の私は、この種の話をその面から考えたりしたから、かえってわけがわからなくなってしまった〉

死んだ人の体をわざわざ三分して埋葬するのは、身体の各部が「それなりに意味を持つ」からに違いない。そう思えば、欧米の文化にもともと二元論的なものがあるわけでもない。

だからといってどちらかを捨てて論を進めたりはしないのが養老孟司であり、そこがおもしろい。また、アナロジーをだいじにもする。

養老のかんがえる《学問》は解説ではないので、おなじ話にもどってきたり、ぜんぜん進まなくなったりもするけれど、ダレ場も旅のうちである。

現代社会は、世界が理性的に解明され得る錯覚を与え続けている。デカルトはそんなことはいわないであろう。彼が提案したのはあくまでも方法であって、結論ではない。だから『方法序説』なのである。

〈文化というのは理性的な部分と、非理性的な部分がおそらく上手に融合しているので、その一方だけを取り出すわけにはいかない〉

心臓信仰が近年まで残っていたことと、景色がよくて住みやすそうだなあという感覚を与える環境は、ひょっとすると連動している。東京やニューヨークのような近代的都市では、こういう「なにか」が消えてしまう。

 

〈いわゆる「進歩」は「違いを見ることができない」という乱暴の上に成立する〉

 

〈言わず語らずのうちに、なにかが身につく。文化や伝統とは、要するにそういうものであろう。その過程には嘘を評価することも含まれている。私は欧米人が平気で「真っ赤な嘘」をつくことに、若いうちは真剣に腹を立てていた。でもいまではそれが文化の一面だと理解するようになった。言葉が上手に使えることと、嘘がつけることは、同じ能力の上に成り立つ〉

 

欧州の都市住民から見た森の住民は、グリム童話によく示されている。森の住民は魔物であり、だからヘンゼルとグレーテルの魔女は森の住民であり、さらに森には赤頭巾の狼が棲むことになる。(……)

欧州の場合には、都市住民の文化と、森の住民の文化は、ほとんど決定的に断絶している。

都市的な感覚が勝利というふうには養老孟司は見ていない。〈コンピュータの世界はホワイトカラーを駆逐しつつある〉。ブルーカラーだけではない。産業からヒトがいなくなる。