大漁、異漁。耀

タイトルは タトゥーのようなもの

「世界はわたしを娼婦にした。今度は、わたしが世界を娼婦にする」

シリーズ「声 議論、正論、極論、批判、対話…の物語 vol.3」『貴婦人の来訪』観る。初演は1956年。作、フリードリヒ・デュレンマット。

失業者あふれる町ギュレン。17歳のときにこの町をはなれた少女が、45年ぶりにもどってくる。富裕な貴婦人となって。この町に融資をしたい。1000万や2000万ではない。10兆。

その代わり、かつておなかの子を認知しなかった初恋相手の男をだれかがころすこと。

 

作品解説の増本浩子(現代ドイツ文学・スイス文化論研究)は〈デュレンマットによると、アウシュヴィッツヒロシマ以降の世界に生きる現代人を脅かしているのは、「もはや神でも正義でもなく、交響曲第五番のような運命でもなくて、交通事故や設計ミスによるダムの決壊、注意散漫な実験助手が引き起こした原爆工場の爆発、調整を誤った人口孵化器」である。因果関係はもはや成り立たず、偶然に翻弄されるこの「故障の世界」において、従来どおりの文学(悲劇)を創作することはもはや不可能であると主張して、デュレンマットは自作のほとんどすべてを「喜劇」と名付けた〉と。

 

全体主義や大衆の匿名的な正義。暴力。不条理。疎外。孤独。それを男性的に表現せず、いまで言うなら#MeToo 、力を得て帰還した女性による告発として発動させるところが巧い。根ぶかい愛憎の物語だ。

デュレンマットの戯曲にすべてが呑みこまれていく。若く無責任で信頼に足らぬ男の愛情という、だれにも身に覚えのある咎を、死を以て償うこととなるのだから、これはスリルがある。翻訳、小山ゆうな。演出、五戸真理枝。

貴婦人となったクレールは左脚と右腕が義足義手。冒険に明け暮れて財を成し、ちいさな町にもどってきた。7人目の夫と共に。みじかい滞在の間にも離婚、再婚、離婚、再婚と9人目の夫ができてしまう。世界は故障ばかりではない。甚だしい誇張もある。

衝動的なようで執念ぶかく深謀遠慮なクレールは、60歳に手が届こうというところ。凝り固まった邪念ならば見ていられないが、秋山菜津子は潔癖な少女だった。男に裏切られたときではなく、それ以後でもなく、幸せで、好奇心に満ちた、永遠を予感できた《あの頃》のような、可憐だった。少女アリスを《不滅》と評したひとがいた。それをここで視るとはおもわなかった。舞台俳優というのは凄い生き物だ。

初めは『グレート・ギャツビー』と通底する、生者と生者の愛憎劇だろうと観ていた。しかし宣言どおり復讐は果たされ、初恋相手のイルが棺に納められる。その死顔を見たクレールは「あの頃の、黒豹の顔にもどった」と満足そうに微笑んだ。このかんじは、オスカー・ワイルドだ。『サロメ』や『王女の誕生日』の残酷で愛情いっぱいの《不滅》の少女。

パンフレットによると「デュレンマットはもともとこの物語を男同士の話として書き始め、途中で男女の話に変えました」(小山ゆうな)。そこに流れる愛憎はカフカよりもオスカー・ワイルド、『グレート・ギャツビー』よりも『太陽がいっぱい』のようだった。

デュレンマットの戯曲には「芸術が芸術家を生み、芸術家が芸術を生む」といった警句も多い。舞台に掲げられる「人生は真剣、芸術は活力」もそう。ワイルドの「ジャアナリズムというものは読むに堪えないし、文学は今日では読まれていない」などと比べると元気がある。

 

相島一之によるイルの困憊や諦念も素晴らしかった。山野史人(執事)のファンキーが序盤を救っていた。

ほかに加藤佳男(町長)、外山誠二(牧師)、福本伸一(駅長/医者)、津田真澄(教師)、山本郁子(イルの妻)、斉藤範子(町長夫人ほか)、高田賢一(警官)、谷山知宏(画家)、田中穂先(息子)、田村真央(娘)、清田智彦、高倉直人、福本鴻介。

上演時間3時間(休憩15分)。