大漁、異漁。耀

タイトルは タトゥーのようなもの

第一期 B機関 ファイナル公演『毛皮のマリー』観る。

主宰の点滅はリーフレットの挨拶を、天正遣欧少年使節団の話から始める。

備忘のために全文引用しておく。

天正遣欧少年使節団は二年の歳月と命をかけて欧州に渡り

キリスト教の洗礼を受けた

同時期、同じく欧州を目指すも辿り着かず、或いは帰路に遭難し

歴史に名を残さなかった者達もいたのではないか

彼らの船は嵐に遭い海の藻屑と消える

或いは呂宋あたりの海岸洞窟にでも漂着し

そこを教会として布教活動をしたのかもしれない

もしくはすでに死んでいてその魂だけが彷徨っているのかもしれない

彼らの魂は太陽が沈むとこの『毛皮のマリー』という劇に興じる

朝日を浴びると消えていくその魂は永遠に救われる事はない

名も無き者達の煉獄の日々

今日も海に赤い夕日が沈む そろそろ開幕の時間である

・・・・・・

そんなこの戯曲とは全く関係のない妄想から私のマリーは始まりました

毛皮のマリー』で始まったB機関の舞台活動は『毛皮のマリー』で終幕します

愉しかった煉獄の日々ももう終わりです ありがとうございました

 

この、天正遣欧少年使節団というもののもつ、ひたむきな少年性もさることながら漂流のイメージに衝撃を受けた。舞台は海難を連想させてはじまる。吉村昭のいう「海洋文学」だ。冒険よりも苦闘に眼目がある。外の世界を知ってしまったスパイのようなものとして、居場所がなくなる。すべての選択は苦渋なしには済まされず、ずっとさまよう。

舞踏家・点滅の詩的で確かな世界を観て、さまざまな舞台で「海」がえがかれてきたことに気づかされる。俳優たちの足の裏、大地が海を夢みるのだろうか。舞台を構成する板が――板子一枚下は地獄――船上をおもわせずにはいないのか。

場末と幻想が入り混じった2時間30分。マリーに葛たか喜代、美少年・欣也に吉原シュート、美少女・紋白に蝶羽。

刺青の男 それにしても、マリーさん。あんたは、どうして女に変装したりするんだね? ちゃんとした男つうものがありながら

マリー それはあんたが刺青をしてるのと同じことよ。どうしてそんなものを彫るの? きれいな肌がありながら。(刺青の男、こたえない)ちゃんとした男でありながら、男であるだけじゃあきたらず、警察官を演じたり、船乗りを演じたり、思想家を演じたり、フットボール選手を演じたりする人がいっぱいいるのに、おかしいじゃありませんか。女を演じるのだけを、好奇の目で見るなんて。

丁寧で、幅広いキャスティング。クィアである。そして魂への理解がある。

マリーの前ではグッと抑えて無個性な下男を演った海津義孝も、ソロパートではあんな声色こんな演技とじつに自在で、懐かしくも頼もしい。

 

これまではマリーの哄笑、という印象がつよかったけれど、点滅の演出は少年少女に寄り添ったもの。美少年と美少女のほかに蛹(幼い妖精、ホムンクルスでもある)が登場する。舞踏家の由佳。薬液のような孤独と静かな自由だ。

美少年と美少女は、マリーの屋敷から逃げだそうとする。浴槽が航海のための舟となる。しかし寺山修司の好む話型は、脱出の失敗、失意である。戯曲のト書きに〈まるで催眠術にでもかかったように美少年、呆然として入ってくる。もはや、それは憑かれた人形にすぎない〉とあるとおり。

マリー さあ、坊や、町でとってもいいお土産を買ってきてあげました。

(とカツラをとり出して)これからおまえはとってもきれいな女の子になるんですよ。(と美少年の頭にのせる)

ほうら、よく似合う、あたしの思ったのとそっくりだ。

(と口紅をとり出す)

(ゆっくりとテーマがながれこんでくる)

さ、顔をあげて、お母さんの顔をよく見て(と言いながら、ゆっくりと化粧してやりはじめる。しだいに、美少年が美少女に変ってゆく……)

どうして泣いたりなんかするの?

坊や

おまえは今にこの世で一ばんきれいになるんですよ。

ここを全くの絶望としては、俳優たちに宿るクィアが報われぬし、B機関のファイナル公演でもある。どの科白にもぎりぎりの、切実なものがあった。傷つきながらも美少年・欣也は覚悟をするわけだ。それが観客へのエールともなり、美しかった。

出演はほかに由地慶伍、中村天誅、藤沼みどり、油絵博士、強口まゆか、高橋芙実、土田ななみ、柴崎莉良、中川朝子、kanako、大垣内正美、高橋未希。