大漁、異漁。耀

タイトルは タトゥーのようなもの

「あなたとの、考える日々は、私には限りなく楽しかった。そうして、それを続けたかった」  魚怪先生

扉座『Kappa 〜中島敦の「わが西遊記」より〜』見る。脚本、横内謙介

「夢」や「理想」という遙かで、みずみずしいものへの志向が中島敦にも横内謙介にもある。だからもちろん相性は好い。

横内謙介にとっての「夢」は演劇にあり、舞台をとおして語られるもの。執筆や俳優をめぐる物語だ。ゆえにコロナ禍以後、重たい題材が続いてきた印象だけれど今作はかなりくつろいだ調子ではじまる。岡森諦が「円形脱毛症ですなあ」と科白して可笑しく、扉座の世界に引きこみつつも、終盤は凛々しく崇高な一場となる。あ、こういうタネ明かしをするのか、あ、原作のここをラストにもってくるのかと横内謙介らしさを愉しんだ。

中島敦『わが西遊記』は「悟浄出世」「悟浄歎異」二篇から成る小説である。「悟浄出世」は沙悟浄が「渠(かれ)」と記される三人称、「悟浄歎異」は一人称の「俺」が孫悟空の心身にあこがれ、しかも悟空と三蔵法師の〈男色的〉――と、猪八戒の評する――結びつきを観照するだけの、なかなかにオクテなプラトンホモセクシュアルで、旧制高校・硬派・衆道・お稚児さんなど濃く匂う。

横内謙介は友情をえがく際にエロティシズムをもちこまないので「悟浄歎異」のほうは相当削るだろうとおもった。教養と男色性によって臆病になった悟浄的人物が、中島敦の小説のおもしろさだけど、そして自分とは何かと悟浄が問うてしまうのも若さのためでないとかんがえるけれども、『わが西遊記』から青春のみ抽出するのも方法ではある。

横内謙介にとって「変身」はケレンである。観客の期待があって、それを上回ってくるサービス精神だ。孫悟空猪八戒を叱咤するばめんがある。虎に変身せよと言う。そしてきちんと、春節の獅子舞よろしく二人がかりの虎が現れる。我々はおどろき、満足する。

 

孫悟空に、小川蓮。素直に若く、《火》の如き熱演。沙悟浄は有馬自由。謎多き魚怪先生には岡森諦。

猪八戒、犬飼淳治。三蔵法師、砂田桃子。

三蔵法師は言う。「我らの世界、決してどしゃ降りばかりじゃありませんよ」と。