大漁、異漁。耀

タイトルは タトゥーのようなもの

俳句 アニミズム 芭蕉×酒堂

俳句の海に潜る
中沢新一と小澤實の対談集『俳句の海に潜る』、ふたりともたのしそうだ。
ふたりを結びつけたのは細見綾子の〈そら豆はまことに青き味したり〉。歳時記では解説されることのない蚕豆(そらまめ)のもつエロティックな象徴性、俳句なるもののつよさ。

中沢  俳句は必ず季語を立てないといけない。季語を立てる時は気象も関係する。四季の動植物の問題もある。動植物と気象を立てて、それを季語にして詠むという芸術の、一種のルールですね。すごく重要な問題だと思う。つまりそれは「人間の目で見るな」ということです。

貨幣、言語、権力といった社会性から離れていき、「言葉に作り替えられていない世界」をもとめる。これが松尾芭蕉の『おくのほそ道』だという。
「和歌は基本的に優美な文明に組み込んでいく。マイルドなかたちに自然を組み込んでいくことによって制圧するということが和歌の基本ですが、俳句はそれを否定した」(中沢新一)。

中沢  俳句で最悪の評価を与える時「月並(つきなみ)」という言葉がありますね。あの言い方はなかなかいい。記号的ということですね。


中沢新一と小澤實はいろんなことばを行き来するが《アニミズム》も《漂泊》もヒトの眼をすてて偏在する方法のようだ。正岡子規の〈小夜時雨(さよしぐれ)上野を虚子の来つつあらん〉。松尾芭蕉の〈川上とこの川しもや月の友〉。
「どんなに愛する相手であっても、その人や物との間には『無』の間隙が空いていなければならない」(中沢新一

小澤  残酷さというのは俳句の魅力の一つです。