〈典雅なるものをにくみきくさまらを濡れたる蛇のわたりゆくとき 葛原妙子〉
何年もかけて読了。関川夏央『現代短歌 そのこころみ』。いい本だった。2月26日に二・二六の箇所を読めた。斎藤史。
短歌ほろべ短歌ほろべといふ声す明治末期のごとくひびきて
「生活即歌、と誰が言おうと、歌はやはり余裕の産物である。生きることに追われていたら歌などできる筈はない。『けもの』は歌なんか作らない。生きるためだけに必死に生きている、そういう姿を純粋で美しい、と思うのもやはりよけいな思いこみなので、実際は陰惨というに近い」(石川不二子『わが歌の秘密』)
荒れあれて雪積む夜もをさな児をかき抱きわがけものの眠り
石川不二子
「『戦前』という時代の残照──中城ふみ子と石川不二子」の章ではめいめいの、なにかとの衝突。石川不二子は農場に入り、自然や労働と向きあった。
〈石川不二子の人生と歌のほうが、その克己と隠忍の理想主義において、また折り目正しい保守的態度のあらわれという点において、中城ふみ子のそれより戦後的というべきなのであろう〉
この指摘が凄い。中城ふみ子は病や恋を過激にうたったが、そこには〈戦前の中流家庭育ちのセンス〉、〈安定した平和な時代としての戦前への郷愁のトーンがある〉と関川夏央は書いている。
中城ふみ子は中井英夫と衝突した。編集者としての中井英夫は苛烈だった。いまでいうパワハラ。「五十首詠」そして歌集のタイトルにもなった『乳房喪失』は中井が推したもので、中城ふみ子には抵抗があった。
〈ふみ子は「乳房喪失」の題名を過剰と感じたのであるが、彼女自身もその過剰さを十二分に内包していた〉
〈見舞い客には、マックスファクターの化粧品で入念に衰えを隠したあとでなければ会わず、ときに病室に美容師を呼んだ。たびたび外出して男性とデートした。彼女は、「切断」した乳房を補うために、日本でもっとも早くブラジャーパッドを使った女性のひとりとなった〉
〈七月上旬の気分のよい日、ふみ子は自分の「死顔」の写真を撮った。目を閉じてベッドに横たわり、顔の右に歌集を、左にオルゴールの箱を置いた〉
出奔せし夫が住むといふ四国目とづれば不思議に美しき島よ
〈しかしふみ子は、高松への転勤を願い出た夫や子供たちとともに移住したのであるから、「出奔せし夫が住むといふ四国」の歌は実人生とは異なった「物語」である〉
灼きつくす口づけさへも目をあけてうけたる我をかなしみ給へ
草はらの明るき草に寝ころべり最初より夫など無かりしごとく
〈中城ふみ子登場直後、歌壇の異常ともいえる反発を体験した中井英夫が、寺山修司を選ぶにあたって慎重であろうとしたのは自然なことだった〉
「僕に短歌へのパッショネイトな再認識と決意を与えてくれたのはどんな歌論でもなくて中城ふみ子の作品であった。(……)
僕はネルヴァルの言ったように『見たこと、それが実際事であろうとなかろうと、とにかくはっきりと確認したこと』を歌おうと思うし、その方法としてはふみ子のそれと同じ様に、新即物性と感情の切点の把握を試みようとするのである」(『短歌研究』1954.12「火の継走」)
〈村木道彦は一九七七年、三十五歳のとき一度作歌をやめている。
彼はその頃苦しみ、焦慮していた。苦もなく口をついて出た二十二歳の作品には強い表現力があった。あざやかなイメージが切りとられていた。だが、その後の作品には生彩がない。辛苦が成果につながらない。自分を「発見」してくれた中井英夫の言葉、「君は短距離ランナーだ」が刺のように心にささる。
村木道彦は、その頃ひたすら歩いた。疲労が「強固な自意識の弛緩剤と化すまで」歩いた。人工的に「忘我」の状態をつくりだそうとした〉
〈村木道彦の復帰には、俵万智の登場が刺激のひとつとなった。村木道彦らの世代につきまとっていた「大仰な身振や、大上段に振りかぶった構え」が、俵万智にはまったくなかった。それは明朗な驚きであった〉
疲れてはふたへまぶたとなるときに、春 重重し 春 燦燦(きらきら)し
村木道彦
奔馬ひとつ冬のかすみの奥に消ゆわれのみが累々と子を持てりけり
葛原妙子
〈一九四四年秋、三十七歳の病院長夫人であった葛原妙子は、空襲の危険が迫った東京・大森山王から軽井沢の山荘に三人の子供たちを連れて疎開した〉
〈十六歳になっていた長女を除き、三歳から十歳までの幼い子供たちとの疎開生活では、食糧難と冬期のすさまじい寒気に苦しめられた〉
活火山の火口吸ひゆく雪片のあなさびしあなすさまじくもあるか
葛原妙子
葛原妙子のことを読むと心躍る。そしてその歌。
葛原妙子が「わたしの短歌を育てた人たち」と挙げたのは斎藤茂吉、齋藤史、佐藤佐太郎、坪野哲久、前川佐美雄、塚本邦雄。梶井基次郎の小説も。
それを書き記したのは死の二年前であり、ほかの歌人ならば歌集にあるはずの師への謝意を一度も掲げてこなかった。関川夏央は類推する。〈単独行の勇気を養うために、つとめて「倨傲」たろうとつとめたかのようだ〉
丘陵に葡萄樹立てり 翳せり 涸れたる地の臍帯のさま
葛原妙子
出口なき死海の水は輝きて蒸発のくるしみを宿命とせり
葛原妙子
ばりばりと頭髪を塩に硬ばらせ死海より生れきし若者のむれ
葛原妙子
飯盒の氷し飯(いひ)に箸さして言葉なく坐(ざ)す川のほとりに
さまざまに見る夢ありてそのひとつ馬の蹄(ひづめ)を洗ひやりゐき
亡き柊二あらはれ出でよ兵なりし君がいくたび超えし滹沱河(こだがは)
宮英子
あなたは勝つものとおもつてゐましたかと老いたる妻のさびしげにいふ
隊列に巻き込まれたる警官の逃れんとして脆き貌しつ
清原日出夫
愛こめてどうか不幸であるように君無き春の我無き君へ
佐野朋子のばかころしたろかと思ひつつ教室へ行きしが佐野朋子をらず
小池光
〈消費こそ善という空気が日本社会に満ちたのは一九八二、三年頃だった。恐れられた「第二次オイルショック」がこともなく過ぎ、それっ、とにわかに消費意欲のみなぎった感がある〉
〈内需拡大の高いかけ声のもとに一躍先端的職業と認知されたのが「広告屋さん」で、「コピーライター」もまた脚光を浴びた。というより「一行何百万の商売」という功利的な憧れの対象となったのだが、その憧れと欲望が短文文化の見直しと投稿文学ブームを呼びこんだ〉
俵万智の登場である。
大陸に我を呼ぶ風たずさえてミルクキャラメル色の長江
〈短歌形式は「最終的に自己肯定に向かう」と見切った寺山修司は、それが不満で短歌を捨てた。しかし穂村弘にとっては短歌の「自己肯定作用」こそが救いと映った〉
終バスにふたりは眠る紫の〈降りますランプ〉に取り囲まれて
濁流だ濁流だと叫び流れゆく末は泥土か夜明けか知らぬ
齋藤史
暴力のかくうつくしき夜に住みてひねもすうたふわが子守うた
齋藤史
これが、齋藤史二十七歳。一九三六年の歌。
史の父、齋藤瀏は二・二六事件による下獄や大日本歌人協会設立の運動のために、晩年は孤立した。
明治大正昭和三代を夢とせば楽しき夢かわが見たりけり
齋藤瀏